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揺れ動く地に立ちて (ルカ21:7-19, ゼカリヤ14:4-5)

◆災害は起こる

大きな災害に遭ったことがない者が、偉そうに言うことはできません。災害は、起こらないに越したことはありません。しかし、災いを避けることは、恐らく誰にもできません。思いもよらぬ災いが、人生を襲います。「どうしてこんなことが」と思うようなことが、平然と押し寄せてきます。自分の身の上に起こることもありますが、多くの場合、他人が災いに遭っているのを見聞きすることになります。
 
災いに遭うのは、悪いことをしたからだ。迷信めいたそのような言い方を、安全なところにいる者が、不幸な目に遭った人に投げかける、そういう冷たいことが、世の中にあるそうです。キリスト教を標榜する者が、そんなことを言っていたという、とてつもなく悪辣なことも、耳にしたことがあります。
 
福音書の中で、イエスは、そういう災いが起こることは避けられない、と弟子たちに話しました。世の終わり、神の裁きに先立って、世界の崩壊が起こり始めることを告げるのです。弟子たちは、その話を聞いて、怯えたのか、慌てて質問しました。
 
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、それが起こるときには、どんな徴があるのですか。」(ルカ21:7)
 
弟子たちは、何か兆候を知りたい、と願いました。突然世界の終わりがくる、というのも怖いものです。それなりに備えをしたい。神の定めた世の終わりというものがあるのなら、せめてその兆しだけでも知るようにしたい。何が証拠になりますか。つまり「徴」は何ですか。イエスに尋ねました。
 
これに対して、イエスは「惑わされないように気をつけなさい」と応えます。イエスの名を騙る者が大勢現れるが、「付いて行ってはならない」と心構えを話します。それから、具体的に、必ず起こることを伝えました。
 
そこに登場したの災害は、大地震・飢饉・疫病・怪現象でした。また、天から大きな徴が現れる、とも言いました。しかし、それですぐに終わりが来るわけではない、とも言います。戦争や騒乱の噂に、浮き足立つな、と戒めます。怯えてはならない、と釘を刺します。
 
そもそも、そうした災いが人々の耳目を集めるその前に、事が起こるというのです。災害に目を奪われることなく、日常の中の恐ろしい始まりについて心得ておけ、というのです。「人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く」からです。
 
だが、それは害悪ではありません。むしろ、あなたがたの「証しの機会」になる、とさえ言います。しかも、自分で何かを弁明しようと構える必要はないのであって、何を言うかその言葉も知恵も、イエスがそのときに必要な分だけ授けてくれる、と約束します。
 
また、事の前後は分かりませんが、あなたがたに対して迫害が起こるほか、親類縁者や友人たちからも、裏切られて、殺されもする、という恐ろしいことを予言します。さらにイエスの「名のために、すべての人に憎まれる」とまで言いますから、信仰者への迫害は極まってきます。その後の迫害に対する毅然とした信徒の模範のような物語を、私たちは数多く聞き知っています。ほんとうにそんなことができるのでしょうか。しかし、信仰の先人たちの中には、そうした迫害の中、信仰を保った人がたくさんいたという話を、私たちは確かに聞いています。
 
しかし、髪の毛1本たりとも、失われることはありません。それがイエスの約束です。忍耐せよ。命が与えられるのだから。聖書の中で、イエスは私たちに、このような逞しい励ましを与えました。私たちは、これに応えて、勇気を出すべきです。――でも、本当に耐えられるのでしょうか。怯む気持ちになっても、おかしくないのではありませんか。
 

◆逃げよ

迫害に対して勇敢に立ち向かえ。殉教も厭うな。怯えるな。恐れることなく、堂々と信仰の戦いをせよ。聖書は、時折そのような言葉を投げかけます。そこを思わず開いてしまったとき、私たちは「しまった」と思うかもしれません。主よ、これが私に対する御心ですか。信仰のために死ね、と仰るのですか。耐えなければなりませんか。ちょっと、ビビってしまいそうです。
 
新約聖書とは少し違う形ですが、旧約聖書においても、この最後の日、「主の日」について告げられたところがたくさんあります。元はと言えば、預言者をはじめ、そのような神の裁きの世界を想定していた旧約聖書の言葉があったからこそ、イエスがそこから引用し、新しい契約の中でそれが成就するのだ、と宣言したのであり、また、新約聖書の記者たちも、そうした旧約聖書の中の言葉を、イエスにおいて実現したのだ、と説明したのです。
 
今日、ゼカリヤ書14章を、このことに関してお開きすることにしました。
 
4:その日、主の足は/エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。/オリーブ山は東と西に半分に裂け/非常に大きな谷ができる。/山の半分は北へ、他の半分は南へ移る。
 
終わりの日、オリーブ山に主が現れる。そのため、イスラエルの人は、オリーブ山が見える東側に墓地を構えようとするのだとか。旧約の預言ですから、ユダヤ教の人にとっても、これは貴重な記事となります。このとき、山が半分に裂け、それぞれが北と南に移る、というダイナミックな預言がなされています。
 
5:山間の谷がアツァルに達するので/あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。/ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたように/あなたがたは逃げる。
 
ところがこのとき、主が立つのはよいとして、人はどうするかと言えば、ひたすら「逃げる」のだ、と述べています。山と山との間にできた深い谷を通り、この地から「逃げる」のです。逃げてよいのですし、逃げるのだ、と言い切っています。新約聖書の立場にいる私たちも、この言葉を聞きます。そして慰めを受けます。私たちは、逃げてよいのです。「逃げる」のです。
 
ここで、「ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたように」という気になるフレーズがあります。このことは、アモス書の最初の句に描かれています。
 
1:テコアの羊飼いの一人であるアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤの治世、ならびに、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、イスラエルについて幻に見たものであり、あの地震の二年前のことであった。
 
「あの地震」で通じるような、激しい地震だったことが窺えます。ちょうど、かつての日本人ならば「あの震災」が、関東大震災のことだと通じたことでしょう。その後は、関西での話なら「阪神淡路大震災」のことでしょうし、関東から東北においては、「東日本大震災」のことだと伝わる災害がありました。ウジヤ王の時代に、「阪神淡路大震災」あの地震」があったのです。
 
そのとき、人々は逃げたのでしょう。地震のとき、災害を避けるために、人々は逃げたのでしょう。その生々しい記憶は、何年過ぎても、言い伝えられたのでしょう。ただの過去のものとはならず、教訓として、そしていままた起こり得るものとして、地震の記憶は、人々に継承されていったのです。
 

◆遠き国や

元々旧版の『聖歌』という歌集で、私は知りました。「とおきくにや」という賛美歌です。なぜか『讃美歌』系統には掲載されません。いのちのことば社を通じて発売されている、『教会福音賛美歌』と、『インマヌエル讃美歌』というものには掲載されているそうですが、新しい『聖歌』の流れからは消えてしまいました。
 
 
遠き国や海の果て
いずこにすむ民も見よ
なぐさめもてかわらざる
主の十字架は輝けり
 
なぐさめもてながために
なぐさめもてわがために
揺れ動く地に立ちて
なお十字架は輝けリ(※)
 
 
水はあふれ火は燃えて
死は手ひろげ待つ間にも
なぐさめもて変わらざる
主の十字架は輝けリ
 
 (※)
 
仰ぎ見ればなど恐れん
憂いあらず罪も消ゆ
なぐさめもてかわらざる
主の十字架は輝けリ
 
 (※)
 
J.V.マーチンという宣教師がいました。事情はよく知りませんが、英語の教師をしていたそうです。彼は震災を経験しました。1923年9月1日、あの関東大震災の日です。
 
ミッション系の学校でしたが、現場をすぐに訪れます。聞いた話では、夜をかすかに照らすろうそくの光が、十字形に見えたことから、この詞のことばが与えられたそうです。
 
昨2023年、関東大震災から100年を迎えました。当時の様子は、話に聞くか、廃墟となった土地の写真を見るか、でしか知ることができませんが、スタジオジブリが、映画「風立ちぬ」で映像化しています。もちろん、残酷な描き方はできません。しかし、目に見える画面が大きく歪み、波打つ姿は、地震を精一杯リアルに伝えてくれるものだったと思っています。
 
この関東大震災から72年後、阪神淡路大震災が起こります。火に包まれる都市の姿は、全国に一日中中継されました。それからまた16年後、東日本大震災。波に呑まれる町が、ライブで報道されました。このときには、津波という襲い手が、人と土地を呑んでゆきました。
 

◆神の約束

旧約聖書には、ヨブ記というユニークな書があります。不条理なことで、悪魔から不幸を背負わされることになります。子どもたちを失い、財産が消え、その後からだ中を腫れものが襲い、歩みのために気が狂いそうになります。
 
寓話のようなこの物語を通して、人は問うようになりました。「なぜこんな不条理なことが起こるのですか」と。災いに遭った人が、もし神に向かって言葉を投げかけることがあるとすれば、きっとそのように問うでしょう。
 
頭の良い人が、上手に説明してくれるかもしれません。でも、私は頭が良くありません。「なぜ」というその問いに、答えることができません。たとえ何か思いついたとしても、これが答えだ、と偉そうに言い出すことはできない、と考えています。というのは、何をどのように答えようと、現実に傷ついている人を、きっと傷つけてしまうだけになるだろう、と思うからです。
 
キリスト教の信仰があれば、問う対象として、神を知っています。だから、「なぜこのようなことが起こるのですか」という問いは、「神よ」という方向に向けられて発することになります。しかし、その問いに、自分から答えようとする人が、中にはいます。さも聖書通であるかのような自負を以て、聖書にはこう書いてある、これを信じるのが信仰だ、などと言って、神はこれこれを思い、このようにしているのであーる、と断言する人がいるのです。
 
しかし、神の奇蹟を説明するというのは、さすがに現代人には異様だ、と感じるのでしょうか。逆に、無力な神を強調する人もいます。キリストはあの震災で、犠牲者たちと一緒に火に包まれたのだ、津波に流されたのだ、そんな解説をするのです。奇蹟のできないイエスが、ただ病人に寄り添っていただけだ、と解した遠藤周作と似た観点であるのかもしれません。けれども果たして、それを普遍化させてよいのでしょうか。
 
イエス・キリストに出会い、イエス・キリストに救われた、という経験を確かなものとしてもつ人は、恐らくそのような無力な神の話など、相手にしないだろうと思われます。自分が出会ったのです。自分は変えられたのです。変えられて、新しい人生を与えられた。それは、自分が偉い人間になったとか、立派な者になれたとか、そういうことを謂うのではありません。ただ、自分は救われたのだ、という強烈な確信があり、自分を救った方はこの方だ、と指し示すことが堂々とできるというだけなのです。
 
神は、「救う」という約束をなさいました。私は、それを受けました。自分の中から生まれる知識や知恵によるのではありません。私の外から、その声がありました。人を超えた力が確かに存在し、生かす言葉を聞いたのです。神はそれを約束してくださった、と証言するのです。神が無力でないことを、確かに知っているからです。
 
それを、あなたも聞いていたのではないか、とクリスチャンには問いかけたいのですが。
 

◆怪しいしるし

最初に、ルカ伝を辿りました。21章は、しばしば「小黙示録」とさえ呼ばれます。「黙示録」というのは、新約聖書の最後に並ぶ、将来の神の国の実現することを見たヨハネという人の幻が延々と書かれている書です。しかし、マルコ伝とマタイ伝とルカ伝という、似た傾向をもつ三つの福音書には、それぞれ将来のこの世の終わりの様子を描いたまとまりがあります。そこでその部分を「小黙示録」というニックネームで呼ばれることがあるわけです。
 
長くなりますが、今日の聖書箇所の大部分を再掲してみましょう。
 
8:イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。
9:戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」
10:そしてさらに、言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる。
11:また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きな徴が現れる。
12:しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13:それは、あなたがたにとって証しをする機会となる。
14:だから、前もって弁明の準備はするまいと、心に決めなさい。
15:どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。
16:あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ、中には殺される者もいる。
17:また、私の名のために、すべての人に憎まれる。
 
最初に申しましたように、ここには恐ろしい出来事がたくさん鏤められています。当時の人々の恐怖を知らせると共に、現代に生きる私たちにとっても、ずいぶんとリアルで恐ろしいものが多々並んでいることが分かります。
 
国の対立・大地震・飢饉・疫病。まったく、現代そのものです。恐ろしい現象・天からの大きな徴、というのはピンときませんが、自然災害は、ここのところ十年に一度の災害が、毎年襲ってきていますから、決して無縁なものが挙げてあるようには思えません。迫害と逮捕のようなものが私たちを襲うそうです。親類や友人にも裏切られ、殺されることもあるのだそうです。イエスを信じると告白ことで、すべての人に憎まれるともいいます。
 
教会に行っているんですか。偉いですね。そんなことを言われるわけではないのです。呑気に、いい人と言われたように照れている場合ではないのです。「自称クリスチャン」はいくらでもいます。自分で自分をクリスチャンだと決めつけているだけの者でありたくないと願います。
 
こうした恐ろしい事態にも拘わらず、ルカは慰めをもたらしています。イエスのここの言葉は、次の言葉で締め括られています。
 
18:しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。
19:忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」
 
恐ろしい出来事や現象、そして徴とさえ呼ばれるものは、それらがすべてではないのです。それらが結論ではないのです。それは、徴に過ぎないのです。つまり、神が私たちに与えて下さる「ヒント」です。神の出来事が真実に起こることを約束するための、「ヒント」が与えられているに過ぎないのです。
 

◆たとえ憎まれても

もう一度、この終末に起こることを聞き直してみましょう。私たちを直接襲ってくる事態です。
 
12:しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。
 
ここだけ見ると、悲観的な気持ちになりかねません。イエスはそれに対して、知恵や助けを与えるようなことを答えましたが、それよりも、このような目に遭うことについて、ふと気づかされることがあるわけです。
 
それは、イエス自身が、そのような目に遭った、ということです。これは、イエスの姿を描いている、と読むことができるはずです。イエスは当局に捕らえられます。ユダヤの権力者の前に連れて行かれました。さらに、十字架刑の実施のために、その裁判権をもつローマ帝国の役人に引き渡されました。
 
16:あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ、中には殺される者もいる。
17:また、私の名のために、すべての人に憎まれる。
 
逮捕されたイエスには、もう誰も従って行きませんでした。親兄弟も止められませんし、あれほどイエスを師と慕った弟子たちも、皆逃げ去って姿をくらましました。イエスは「裏切られた」のでしたが、イスカリオテのユダからはまともに「引き渡された」のでした。この「裏切る」という言葉は、「裏切る」と「引き渡す」と、訳し分けられることはよく知られています。イエスは裏切られ、引き渡されました。「中には殺される者もいる」どころではありません。イエスはなぶり殺しにされたのです。
 
「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と、群衆の怒号が鳴り響きました。イエスは、すべての人に憎まれたのでした。イエスの場合、自然災害とは異なりましたが、世の人間たちから、棄てられたのでした。しかし、たとえ憎まれても、イエスは人間を愛し貫いたのです。
 

◆主の足が立つ

ゼカリヤ書で、逃げてもよいのだ、という知らせを聞きました。どうやら無闇に戦うのが勇気あることではないようです。戦いは主のもの。主の守りに包まれて、私たちは逃げるとよいのでした。
 
しかし先ほど、私は一部を省略してご紹介しました。最後の部分をスルーして、逃げるということに終始してお話をしておりました。いま、その最後の部分を付けてお読みしましょう。
 
5:山間の谷がアツァルに達するので/あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。/ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたように/あなたがたは逃げる。/わが神、主が来られる。/すべての聖なる者たちも主と共に来る。
 
ただ逃げるだけではありません。「主が来られる」というのです。聖なる者というのが具体的に何をイメージしてよいか分かりませんが、天使かもしれないし、イエスに従う仲間のことかもしれません。とにかく味方です。大切なことは、「主が来られる」ということです。
 
ルカ伝においても、このような慰めがありました。
 
18:しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。
19:忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」
 
主が来る。私たちの命は失われない。忍耐を勧める。あなたがたは命を得る。恐ろしいニュースが聞こえ、怪異現象が現れたとしても、慌てる必要はない。それらの徴は、神からのヒントである。自分で焦り、ばたぐるうことなく、イエスからの言葉を俟つのです。これらの徴を知ったら、そしてゼカリヤ書が告げていたように、主の足がオリーブ山に立ったら、堂々と逃げればよいのです。
 
逃げる。それも、慌てる必要はありません。私たちは、どっしりと立っている場をもっています。モーセは主の言葉を聞きました。「私の傍らに一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい」(出エジプト33:21) この岩は、新約聖書においては、キリストのことだと理解されています(ペトロ一2:4)。
 
本当にそうだろうか。こんなにずたずたな自分の魂では、ぐらぐらして弱い立ち方しかできないのではないだろうか。
 
しかし、関東大震災の疵の中で、マーチンさんは、見たのです。確かに見たから、詩を書いたのです。揺れ動く地に、決して輝きを失わない十字架の姿で、心が一杯になったのです。
 
  揺れ動く地に立ちて
  なお十字架は輝けリ
 
少々不謹慎を承知の上で、付け加えます。私たちもまた、一人ひとり、地を揺るがす事件に遭遇しているのです。それは、自分が立っているところ、自分という地が揺れることです。自分というものの上に立っていたつもりが、なんと脆いものか、知らされたからこそ、神を信じたのではなかったでしょうか。私というものが、滅ぶのを知った、その経験が、イエス・キリストの救いへとつながる道だったと思うのです。キリスト教が分かる、ということは、この経験をした、ということにほかなりません。
 
揺れ動いた中で見えた、あの十字架、それをいままた、見上げましょう。見上げ続けましょう。

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