裁きはあるのだが
民数記35:9-15
逃れの町なるものが本当にあったのかどうか、私は知りません。カナンの地に入ったら、という条件は、すでにカナンの地に入っているからこそのものでしょう。後のイスラエルの民が規定したことであることは確かです。でも、こうしたユニークなシステムが生まれたのはどうしてなのか、まことに興味深いものです。
ターゲットは「過って人を殺した者」です。過失致死と呼んでもよいでしょう。そこへ「復讐」の手を伸ばさせないための方策なのです。目には目、歯には歯、などという規定は、過剰制裁を抑止するためだという解釈がありますが、それさえも未然に防ぐというのです。私たちが故意に人を殺めたのでないなら、個人的な私刑から護られるというのです。
しかしよく見ると、「会衆の前に立って裁きを受ける前に死ぬことはない」と言っています。過失致死は無罪なわけではありません。裁きがあるのです。神の裁きを誰も逃れられないように、人を殺めておいて罪から逃れられることはないのです。それが、いざ敵に対するとなると、さあ殺せ、というのが神からの論理だとは。
そもそも裁判規定で、違反者を死刑にする律法は、いくらでもあります。いったい、人を殺すというのは、どういうことをいうのでしょうか。もちろん、この箇所に続き、過失についての詳論が提示されています。「血の責任」について規定されているわけです。故意殺人については、決して許されることはないのです。
戦争とは何なにか、律法の内部では決定されません。いまの私たちの「戦争」は、また違う概念です。どうすべきなのでしょう。実態不明であるにしても、逃れの町なるものがかつては与えられていました。まるで、イエス・キリストによる、ある種「不条理な赦し」というものが、ここで予告されていたかのように見てはいけないでしょうか。
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