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教会学校の未来

教会ばかりではない。教会学校も、存続が危ぶまれている。もちろん、すべての教会で、とは言わない。だが、大勢はそうだと言って差し支えあるまい。中には、子どもたちがもう来ないのが当たり前というスタイルで日曜日を過ごす教会もあるし、もう子どもたちのためのプログラムを組めず、ちょっと子ども向けの話をした態度で、あとは遊んでおきなさい、というようなところもある。少子化だから仕方がない、という声も聞かれる。
 
だが、少子化と、子どもがいないこととは、雲泥の差がある。教会の近くに、小学生はいないのか。何十人か、何百人かは知らないが、たいていのところには住んでいる。少子化のせいにするのは、基本的におかしい。
 
私も、教会学校が栄えていたと言われるような時代を、知らない。牧師家庭にお子さんが何人もいたからこそ成り立っているような教会学校もあった。信徒の子がいるから開かれていたようにも見えた。しかし、近所から来ていた小学生の姉妹がレギュラーだったこともある。信徒関係ではなく、躾をよろしく、というような親の願いがあったのだ。ずいぶん長く通っていたのは、何かしら心に影響を与えたことだろう。
 
京都では、午後にギター片手に、公園へ出かけて、東屋に子どもたちを集めていたこともあった。歌を教えたり、紙芝居をしたり、ただ説教をしたりもしていた。数人がよく寄ってきて、優しくされるものだから居心地好さそうにしていた。
 
その京都では、教案誌に基づいて、中高生クラスもあったが、すでに教案誌の形式は実施不可能だった。嬰児科・幼児科・小学下級科・小学上級科・中学生科・高校生科、と分かれた教案が作成されていた。
 
福岡では、同じ信仰の派のところが近くになかったので、ずいぶんと雰囲気の異なる教会に通うことになった。もちろん、プロテスタントであり、比較的自由に振る舞う教会であったので、そのあまりの自由さに戸惑ったこともあったが、教会学校も提言が受け容れられもして、新たな形を見出してゆくこともできた。
 
朝早く教会学校が始まる。その後、10:30から一般の(大人の)礼拝が始まる。これが当たり前だと誰もが思っていた。しかし、それは難しいのではないか、と私は相談した。子どもと言っても、信徒の子が多い。信徒はその子のために、1時間早く教会に来なければならない。概して、大人はすることもなく時間を潰す。やがて教会学校が終わり、今度は大人の礼拝が始まる。すると、信徒の子どもたちは、家に帰るわけにもゆかない。教会のどこかで遊んで、昼過ぎまで待つことになる。
 
あるいは、礼拝にそのまま座っていることもできるが、大人向けの賛美歌と説教である。静かにさえしていれば、席で絵でも描いていてよい、などとも言われるが、毎週1時間半をそうして過ごすというのも、なんだか変だ。「そういうものだ」と思い込んでいたら、なんとも思わないのかもしれないが、やはりこれは親も子どもも、奇妙な生活を強いられていると言わざるをえない。
 
さらに、午後に会議でもあれば、子どもはただそこでいつまでも毎週同じように遊ばなければならない。これが日曜日の過ごし方となる。こうなると、近年問題になっている「宗教2世」の姿丸出しではないだろうか。
 
提言して、信徒は10:30に集まることを標準とすることにした。いわゆる一般の「礼拝説教」の前まで、子どもたちは大人の一般の礼拝に参加する。賛美歌などのプログラムには極力参加する。そして、「子ども説教」というコーナーを設ける。何人かが交代して、それを担当する。形式は自由。但し、とにかくその週の教案誌の内容を基にして、子どもたちに語りかける説教をする。恐らく、5分から10分くらいであろうか。
 
実はこういうのは、信徒の訓練にもなる。聖書の話を真っ向からするのだ。教会学校やその心得のある信徒が担うのが普通だが、他の人も可能である。紙芝居をつくったり、フランネルグラフや紙人形劇など、工夫を凝らすのもいい。
 
この場合、ポイントは、子どもたちのためにこの説教がなされることである。別の教会では、子ども説教と称しながら、前に座らせた子どもたちの上を話す者の視線は通り越えて、後ろにいる大人たちを気にすることばかりで、大人向けのウケを狙うようなことを言うようなこともあった。そして、それを咎める空気もなかった。さらにそこは、それが済めば子どもたちは自由に1時間近く遊ぶ部屋に行くだけ、ということだったから、とても子どもを育もうという空気は感じられなかった。
 
さて、私たちのほうでは、この「子ども説教」の後、子どもたちは大人向けの説教を聴く義務はなくなる。別室へ招き、そこで「教会学校」が始まるのである。否、私はそうした言い方でごまかしたくなかった。それは「子ども礼拝」であるという位置づけであった。
 
私がたいていそれを担当した。私は礼拝の説教を聴くことはできなくなるが、いろいろあって、それは構わないこととした。しかも、私も子どもたちが会衆であるという特徴はあるが、そこで礼拝を執り行っていることになる。礼拝に出られない、というような心配は全く要らないのである。
 
子ども礼拝は、礼拝のプログラムに則って開かれる。賛美も歌うし、聖書朗読や、短いながらも説教もある。子どもたちにとって楽しみは、その説教後のレスポンスである。私は教材をこしらえた。1枚の紙に、礼拝の内容を問うクイズを満載したものである。そこには、文字さえ読めれば誰もが答えが分かるような選択問題を創作した。三択のうちの一つは、明らかにふざけた選択肢であり、子どもたちはそれでたいてい笑い転げた。
 
また、工作案がよく教案誌に載っている。それを利用することもあったが、別に楽しい工作ができないか、といろいろ調べて、おもちゃをこしらえることもよくやった。紙とクリップと磁石で、魚釣りゲームをつくることができる。切って色を塗り、貼り合わせるなどしていると、結構な時間を費やす。そしてできたら遊ぶのでまたしばらく楽しめる。ブンブンゴマはよくつくった。宇宙で太陽光パネルの折りたたみに使われているミウラ折りを実践したこともあったし、いろいろパズルを一緒に作ったこともあった。
 
それでも、最後にはちゃんと礼拝に戻る。最初は大人の礼拝に戻って終わっていたような気がするが、時間を合わせるのが難しくなり、子どもの礼拝で賛美歌や祝祷などといった形で締めることになったのではなかったか。子どもたちも、立派に「礼拝」をしたという誇りとでもいうものがあってほしかった。
 
別の教会に移っても、似たような事情があったので、この教会学校の形式を提言し、採用された。そちらでは、数人が担当できたので、私は月の半分くらいをそうやって子ども礼拝を担当していた。その教会では、礼拝の録音ができたので、それを後から聴くこともできた。たとえば妻にも月に一度くらい担当してくれたことが助けとなった。
 
飛び入りの子どもも、なかったわけではない。だが、やはり信徒の家族や親族が基本メンバーだった。私の子たちは、このような形で、私の「子ども礼拝」を経験することとなった。親としては、これはあまりありがたくないことである。「優しくしましょう」などという教えが、とんでもない嘘であることを知る証人が、そこにいるのである。我ながら、よくやっていたものだと思う。あるいは、生活そのものが、襟を正すものとされた、と言うこともできようか。しかし、「酷いものだ、と、子どもたちの側からは醒めた目で見ていたのが実情であったのではないか、と思う。
 
自分の子が成長して、教会に来なくなる場合もあったし、教会の青少年の活動で活躍する場合もあった。「教会学校」という範疇に入らなくなってからは、次第に私の出番はなくなった。ノウハウはそれなりにもっていたが、新しい教会ではそもそも教会学校自体が存在しなかった、という事情もある。
 
そもそも職業柄、小中学生を相手に、若さのエキスを吸い取って生きているような人間である。子どもへの話し方は、自分の死活問題でもあるだけに、それなりになじんでいる。子どもたちを迎えるための動きを、もっとやればよかったとも思っているが、諸事情で、それに力を入れることが難しかった。なにもベテランのおじさんがしゃしゃり出なくても、若い力がたくさんあるように見えたし、ちょっと独自の形態の礼拝であったから、教会学校という形が、最初から想定されていなかった面もあった。
 
ここまでは、おもに小学生を対象とした話だった。中高生となれば、また別扱いをすべきだろう。私に、そのすべてを扱う能力も度量もない。一般に、中高生は、若くて年の近い先輩が話しやすいという。小さな子になれば、今度は歳の離れたベテランが信用されると言われる。さて、教会にそうした若いメンバーがいなくなれば、中高生の扱いも手薄になる、ということなのだろうか。
 
本気で、子どもたちを教会に招こうと考えているのか、疑わしい、とも思う。誘わなくても、選ばれた子どもたちは来る、というように、さとりを開いたような言葉も聞こえてくるし、先に挙げたように、少子化という理由で妙に納得している人もいる。子どもたちは忙しいのだ、と社会のせいにもできるし、日曜日も塾がある、とやはり誰かのせいにする声もある。以前は日曜テストという形でそれも言えたが、最近はその日曜テストの形式が少し変わってきて、受験学年のほかは、日曜日に召集することはなくなったところも少なくない。残念ながら、教会学校にとって塾が敵だとは言えなくなってきている。
 
そもそも、若者にとって、教会というところに、魅力がなくなってきたのだ、と説く人もいる。教会に必要を感じない、というのだ。古くさい、そして危ない組織であるかもしれないし、妙に拘束されそうな印象があるのかもしれない。ただとにかく、教会というところが、自分とは無関係な世界に遠のいているような気がしてならない。クリスマスなどで思い出す人もいるにはいるし、観光地や美術品としての魅力は覚えるけれども、せいぜいファッションのひとつ、臨時のイベント程度を超えることはないようである。
 
教会が「居場所」になるように、としきりに強調する教会もある。問題は、それが「誰にとっての」ということだろう。いま教会にいる者にとっての居場所というのがせいぜいではないのだろうか。それは、深層心理を探れば、本来自分は説教などできる立場ではないのに、いろいろな方策を駆使して牧師になってしまったが、一旦そうなったポストから外さないでね、居場所にさせてね、というものであることも予想される。教会の「外」の人が、教会を「居場所」にする、という理想論を筋道としたいのかもしれないが、それは凡そ見当違いであると言わざるをえない。
 
大学の、マイナーな同好会が、ポスターを貼っている。「会員募集中」と書いてある。だが、少数メンバーの誰もが、それに魅力を感じることはない。こんなポスターを見て戸を叩く人なんか、いないよね、と皆思っている。これでとんでもないキャラクターが入ってくる、というのが、人気アニメのパターンであるが、そんなことは現実には起こらないことを知っているのだ。実際に会員を集めるために走り回るというのも、アニメの中だけの話だ。今いる自分たちだけが仲良く駄弁っていたら、それでいい、という淀んだ空気に包まれているわけだ。そのうち、自然消滅してしまうだろうが、いまはとりあえずそのことは考えないでいよう、と互いに暗黙の了解を共有している。本気で心配をしていないと、このようなことにもなるだろう。
 
それでいて、「ここにくれば楽しいのに、来ないなんて、多くの人が損してるよね」などと、自己愛からほくそ笑むようなことをしていたとしたら、益々この同好会は、救いようがないだろう。
 
少子高齢化の波は、お寺にももちろん及んでいる。だが、昔ほどではないにしろ、まだ墓地というものを有しているからには、一般の家庭とは何らかのつながりは保てる。キリスト教会は、そのような絆もない。だが、思う。このことを、子どもたちを集めるのだ、という目的意識を、危機感と共にもっているとしたら、それはまた違うのではないか、と。
 
教会にできることは、なによりも、福音を告げることである。そして、基本的にその力をもたらすものは、説教である。説教こそが、神の言葉を告げ、救いの喜びをもたらす道を敷くのである。そのひとつの道が、子どもたちへ向かっている必要がある、ということなのだ。
 
そして蛇足であるかもしれないが、大人が大人として、堂々とその生き方を見せれば、子どもたちはその背中を見ているだろう、ということも、付け加えておかなければならない。次世代の世界に無責任な姿を、おとながSDGsを嘲笑っているような世の中では、子どもたちは、大人の口先の嘘になど、何の魅力も覚えず、大人への信頼も懐かないようになるだろう。いま、そうした空気を強く感じる。大人を信頼しない若者が、大人の教会を、どうして信頼するだろう。
 
少子化の世の中をつくったのは、子どもたちではない。当の大人たちである。子どもたちの前に、悔い改めることをしないならば、大人たちの罪は、解かれないままに残ることだろう。福音は、この罪の赦されたことの宣言である。大人たちが、福音を生きることができるかどうか、そこに未来はかかっていると言っても過言ではない。

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