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十字架への道 (序) (ルカ22:54-71)

◆受難への道の始まり

受難と復活へ至る道を思いながら、神の声を聞いていきたいと願っています。今回は、ルカ伝を頼りに、その旅を続けたいと思います。どうしてルカなのかという、明確な理由はありません。去年は、ヨハネ伝から辿りました。別の風に吹かれながら、イエスを見つめていきましょう。別々の福音書から拾いながら辿ると、尤もらしいイエス像ができるかもしれませんが、ひとりの福音書記者のポリシーを無視することになります。その狙いや意図があるからこそ、使う言葉、流れる文脈というものがあるだろうと思うのです。その描き方に、少しでも触れられたら、と願うのです。
 
今日は、三つの場面から、イエスを取り巻く人間たちを、それぞれの型として、受け止めたいと思っています。人間たちと、それに対するイエスの態度を捕まえたい、と。イエスの思いなど、完全に捉えられるはずはありません。でも、できる限りの想像をしてみたい。
 
すでにイエスが逮捕された場面から始めます。もはや弟子たちは、そばにいません。イエスは、孤独になっています。そこからがスタートです。そして今日は、イエスをユダヤ人が取り巻いている場面に限定します。
 

◆ペトロの姿

まず場面は、大祭司の家です。これはひとつの裁判ではありますが、イエスを死刑にする権限はなかったとされています。ローマ帝国の支配下にあったため、ユダヤ人だけでそれはできなかった、というのです。今回は、ユダヤ人同胞の中で、イエスがどう扱われるか、それが焦点となります。
 
ペトロは遠くから付いて行った。(22:54)
 
ペトロは、逮捕されたイエスと比べると、安全な場所に身を臆しています。でも、危険性がないわけではありません。イエスがまずい立場になったとき、その仲間であることが、身の破滅を招くかもしれません。ペトロにしては、勇気ある行動だったとも言えます。しかしまた、イエスのその後が気になるのも確かです。あるいはまた、今後自分たちの運命がどうなるか、情報を探るためだ、とも考えられますから、あまり美化するのも問題でしょう。
 
しかし、安全を配慮して「遠く」にいるにしても、イエスに「付いて行った」のは確かです。新共同訳では「ペトロは遠く離れて従った」としていました。ペトロはイエスに従ったと言うのです。遠くからだから、イエスに従っている。そこに私は、自分の姿を少し重ね見るような思いがします。
 
屋敷の中庭の中央に火がありました。火明かりの中にペトロが座っています。きっとうつむいていたと私は想像します。なるべく目立たないようにする意味のほか、胸を張ってそこにいることができなかった別の理由があると考えた空です。それにしても、このとき何を思っていたでしょうか。ヨハネ伝では、寒くてたまらないペトロの心象を見事に描いていました。文学的でした。
 
女中の一人が、この人も「一緒に」いた、と突如声を出します。焦ったペトロは、イエスのことを「知らない」と答えます。
 
ここで有名な、ペトロの否認の出来事が描かれます。ペトロがこのようにして、三度尋ねられ、悉く否定するのです。その有様を、簡潔に整理してみます。
 
1.一緒にいた→知らない
2.仲間だ→いや、違う
3.一緒だ→何を言っているかわからない
 
最初は、どきりとはしたでしょうが、関わりがないことを答えました。まだ落ち着いたふりができたと思います。次は、否定しました。じわじわ迫られている様子が伝わってきます。そして最後は、どう見てもしらばっくれています。追及を振り払えないので、見苦しい対応です。この返事は、知っているということを露呈しているようなものです。
 
このとき鶏が鳴きます。イエスの言葉を思い出します。
 
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(22:34)
 
聞いていたのに、このときまで忘れていたのです。私たちも、分かります。口酸っぱく言われていたことに、何か事が起こったときに、初めて気がつくのです。大切なことを思い出すのは、いつも何かあってから、もう遅い、そのときなのですね。
 
ペトロは、たとえ遠くからではあっても、イエスを見守ろうと、敷地の「中」にいました。しかしこの鶏の声により、「外」に出ました。外に出れば、イエスから見つけられることもありません。いえ、何よりも自分がイエスを見ていられないのです。恥ずかしくて、情けなくて、そして申し訳なくて。ペトロは「外」に出ましたが、それは、自分の心の「中」に逃げ込んだことになります。自分と向き合うためでした。
 
このときイエスが、ペトロの方を振り向いて見ます。ペトロが来ていることを知っていたから、でもありましょうし、鶏の予言にペトロが気づいたか、確認したのかもしれません。このイエスの眼差しが、なんとも印象的です。一旦イエスの「外」に逃げたペトロが、再びイエスの眼差しの「中」に入ります。象徴的な出来事だと思います。具体的な情況は十分描かれていないかもしれませんが、イエスとペトロの関係は、意義深く描かれていると思います。
 
イエスはペトロに、何かを言ったわけではありません。でも、ペトロから見て、主の唇が何かを言おうとしていることを、感じたのではないでしょうか。イエスの心を、ひしひしと感じたのではないでしょうか。イエスはペトロを見つめました。
 
ペトロの姿の中に、私は、まず自分の姿を見せられたように思いました。そして、キリスト者の姿を見ます。イエスの近くで従うことができません。遠く離れてはいます。でも、なんとか従おうという気持ちはあります。もちろんそういう信仰を持ちたい、と願っています。けれども、世からの攻撃に遭って、見苦しい応答をする事があります。建前だけのクリスチャンになってしまうこともあります。外でそんな失敗にまみれながら、帰宅してから聖書を開いては、自分の至らなさに落ちこむのです。イエスの眼差しを受けていることを覚えつつ、情けない自分の姿を嘆くのです。
 

◆愚弄されるイエス

次に、イエスのそばにいて、「見張り」をしていた者たちのことが書かれています。身分の低い役人であろうと思われます。出世することが期待できるわけではなし、いつも上役から顎で使われ、逆らうこともできず、奴隷のように働かされている「見張り」です。その鬱憤を晴らすのに、犯罪人の管理はよい機会です。上層部も、その鬱憤晴らしには、目を瞑っていたのではないかと思われます。
 
日頃の不満を、こういうところで腫らすのは、気持ちがよかったことでしょう。イエスを侮辱し、打ち叩きます。ルカの筆致は、「ぶん殴る」というよりも「肌を打つ」ようなイメージである、とも言われますが、いまでは考えられないようなことです。
 
いえ、現代でも、介護職や看護職、福祉施設などでも、似たような事件が報道されることがあります。何をされても我慢せざるをえない職場情況を思うと、気の毒に思われる場合もありますが、ほかにも教師が生徒を何やら、というのも同類です。パワハラと呼べるものもあるでしょうし、全くの暴力や殺害さえあります。刑務所のようなところでも、何かあるかもしれません。もちろん、これらは推測に過ぎませんから、たとえばの話だとしてお許しください。けれども、入国管理センターのようなところでの外国人の扱いが社会問題化されたのは、事実です。
 
彼らはイエスに目隠しをしました。誰が殴ったか当ててみろ、と愚弄し、悪口をイエスに浴びせます。新共同訳では「ののしった」のです。目隠しをして、イエスを見えない状態にして、からかっています。それはまた、イエスから、自分たちを見えないようにした、とも言えます。ここが象徴的であるように思えてなりません。
 
本当は、見えていないのは自分たち人間の方です。そして、イエスから見られたくないのです。これは、キリストを信じていない人々のことに重ねることができるように思われます。神などいない、と嘯く人々のことを表しているようにも見えます。
 
このとき、イエスに対して人間は目隠しをしました。イエスの目力を遮りました。ペトロに対して投げかけられたイエスの視線というものを、一切阻みます。その眼差しを受けたペトロは、やはりキリスト者なのです。しかしそれを隠したつもりになっているこのイエスを拘束していた者たちは、イエスの眼差しを受けたくないのでした。
 
このように侮辱され続けている場面では、イエスの行為は全く封じられています。イエスが何かした、という叙述はありません。イエスは何も反応していません。神を信じようとしない者に対して、神はその業を明らかにしない、ということとパラレルであるような気もします。
 

◆ユダヤ社会の裁き

最後は、最高法院の場面です。場所は同じ大祭司邸でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマ帝国に所属する形でしたが、ローマのやり方は、反逆さえしなければ、自治を認めるというものでした。裁判も、ユダヤ式に行うことができます。但し、死刑執行だけはできないことになっていた、というように福音書は記している場合があります。
 
ただこれも、福音書間で温度差があり、一見死刑判決をしているようなマルコ、死刑判決がユダヤ人は認められないとするヨハネは対立しています。ルカは、どうやらユダヤ人による裁判が「予審」であるような書きぶりになっているように見えます。それは、対立を上手に回避するような描き方とみることができるように思えます。
 
ユダヤ人社会において、イエスをどういう処分にしたらよいか。それがいまから決定されようとしています。貧しい人々を訪ね歩いて、癒やし続けたイエスを知る人々は、この周辺にはいなかったのでしょうか。ガリラヤの村々の出来事は、そちらの土地だけのものだったかのようです。代わりに、権力者たちは都で散々批判され、気分がよいはずがありません。なかなか逮捕ができな故に、いまに見ておれ、という思いが満ちてきたこのとき、ついにイエス逮捕することができました。一気に、死刑へと手続きをとりたいところです。
 
夜が明けたといいます。イエスは夜の間、何をしていたのでしょう。ルカの描き方は、時折非現実的になります。リアリティを欠く書き方があるのは事実です。しかし書かれた通りだとすると、一睡も許されなかったということなのでしょうか。人々は基本的に寝静まっています。この異様な騒動に付き従ってきたのは、権力者が中心ですが、血に飢えた野次馬もいろいろいたことでしょう。
 
そこには、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まっていました。お偉方です。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」とイエスを見下しながら言います。「メシア」とは、ユダヤ人が待望していた、イスラエルを復興する王の到来を待つ信仰が描いた英雄です。新約聖書のギリシア語では「キリスト」と呼ばれています。それを、ユダヤ思想の「メシア」という語で訳し戻していることになります。
 
明らかに権力者たちは、イエスをメシアだとは考えていません。イエスはこれに返答します。かなりいろいろと述べます。これもまた、二組の対話を要約してみましょう。
 
1.お前がメシアならそう言っていいぞ。→私が言っても信じないだろう。私が尋ねても答えないだろう。人の子が全能の神の右に座る。
2.お前は神の子か。→私がそうだ、とあなたたちが言っている。
3.証言は十分だ。本人の口からメシアだと聞いたぞ。
 
ここでイエスはよく語っています。これまでの沈黙とは異なり、はっきりと証言します。この後、イエスはピラトの前と十字架の上で口を開くに留まります。その十字架への道の発端として、このユダヤ人たちの前での発言がなされました。これは、裁判の方向性を定める、決定的な言葉となりました。
 

◆ユダヤ当局とイエス

もう少し細かく、このやりとりに注目して捉えてみましょう。
 
お前がメシア「なら」――とイエスに尋ねました。「なら」とは、実はそうは思っていないことを表す、先ほどそう考えました。これに対してイエスが、私が言っ「ても」、と答えたのは、実はメシアである、ということを意味していると言えます。畳みかけるように、私が尋ね「ても」と言いますが、尋ねたい気がするにしても、実際尋ねることはしない、ということを表しているように思われます。
 
そのイエスは、訊かれもしないのに、神を冒涜すると見なされるような言葉を送ります。そこで自身のことを「人の子」と呼びました。これに対して当局側は、「神の子」であるのか、とイエスに尋ねます。これを肯定すれば、訴えやすくなります。それは宗教的な冒涜であると共に、ローマ帝国に対する反逆ともなるからです。というのは、皇帝こそが「神の子」という呼称を得ていたからです。皇帝への反逆は、死罪が確実となります。国家転覆を謀る犯罪は、十字架刑が必至となります。
 
「神の子か」と訊かれて、イエスは「私がそうだとは、あなたがたが言っている」と返答しました。これを肯定だとして、事態は動きますが、どうも曖昧な返事のように見えなくもありません。イエスのことを神の子だと呼ぶのは、人々が、そしていま目の前にいる権力者たちのほうが、勝手に言っているだけだ。そのような意味だ、と理解する解釈もあります。当局が決めつけていることだろうが、どうぞ勝手にしろ、というふうに聞こえもします。
 
それとも、当局の意図に沿うことではないだろうが、実はその通り、神の子なのだよ、と気概を以て堂々と証ししているようにも受け取るのでしょうか。きっと、これを聞いた人の信仰により違う理解が可能なのでしょう。あるいは、同じ人でも、その場その時により、受け止め方が異なるということがあるかもしません。
 
ただ、このことはユダヤ人たちの前で、完全に拒否され、死刑に相応しいと見なされる方向へ、取り返しがつかないほどに傾いてしまいました。ソクラテスの裁判で、ソクラテスがある意味で余計なことを潔癖に告げたことで、陪審員の反感を買ったことを思い起こします。
 

◆キリスト教組織

ペトロの姿を、キリスト者個人の姿として、私たちは捉えました。イエスに暴力を振るう者たちを、キリストを知らない、あるいは信じない人間の姿を見ました。それでは、このユダヤ裁判における当局の者たちは、どういう人間の型になぞらえることができるでしょうか。
 
まさか、いまのユダヤ教をそれに見ることはできないでしょう。ところが過去において、ユダヤ人が当てはめられた例があるのです。キリストを磔刑に処したのはユダヤ人だ。その一点張りで、キリスト教徒が、社会の基盤を牛耳った世の中で、ユダヤ教徒を迫害してきたことは、歴史を見れば明らかです。西洋史は、そうしたユダヤ人迫害の記事に溢れています。挙句は、何百万人というユダヤ人を、さも動物の生け贄のように葬ったのです。キリスト教徒が、です。このことを現在のキリスト者は、蔑ろにしてはならない、と私は強く言いたい。
 
元に戻り、イエスの暴力を振るった人が、どういう人間の型になぞらえることができるか、検討してみましょう。宗教的権力者たちがそうかもしれません。なんの宗教? 力をもつ宗教です。しかし日本では、たとえば仏教でしょうか。それはなんだか噛合いません。むしろ、他宗教は、キリストを信じないあの下役たちに近いところにいます。
 
認めたくないかもしれませんが、これはキリスト教会と重ねるしかないのです。ペトロは個人的なキリスト者でした。しかし今回はメンバーが複数いて、しかも同じひとつの組織の要人たちです。同じメシアを戴く権威者であるのなら、キリスト教会の、特に組織だった活動をしているものの、主要メンバーや役職者を当てはめるしかありません。
 
しかも、「お前がメシアなら」などと、権威をもった形で意見を発します。一定の理屈を告げます。理屈がないと、組織を形成できません。何か言いたいことがあるなら証拠を出すように、と仕向けるのも、組織運営の方策です。聖書の語句を念入りに調べもするし、主要人物たちが共に納得できるように、理性的な議論をしたいと考えます。
 
組織が組織として成り立つために、あるいはその形を築き、保持するために、信仰を一定の型に流し込む様子を想像します。組織は、ペトロのように、思い出したり、激しく泣いたりしません。自分たちの定めた路線に、イエスを動かそうとさえします。神を、自分の納得できる考えにはめこんで、用いようとするのです。
 
キリスト者のエリートたちが、集団で、イエスとはこうだ、と決定づけてゆく。するとイエスは沈黙します。イエスは、そのような組織の歯車となった者の魂には、もはや問いかけなくなります。声をかけなくなってゆきます。
 
些か辛辣なものの言い方をしました。しかし、問題はこれからです。なにもすべての教会組織がそうだ、と揶揄するような言い方をしようなどとは考えておりません。ただ、もしもこのような、誰も言わないような指摘から、何か思い当たるようなことがあるならば、教会は変わると思うのです。教会に、命が吹き込むと思うのです。
 
組織は、あのユダヤの当局のようになっていないか。組織の一員となった自分は、ファリサイ派の一員のような態度をとっていないか。いつの間にか、そのような考えに陥っていないか。この問いかけを、真摯になすとよい、と思うのです。そして、その組織に属する一人ひとりもまた、その誹謗を当たり前のように受け容れていないか、自分も加担しているのではないか、よくよく問い直す必要があることを、強く思います。
 

◆ペトロでありたい

聖書は、その聖書世界の中に、聞く者を招きます。昔話を、自分の属さない世界の物語として聞くようなことは、聖書にはできないようになっています。聖書を理論立てて分析するのが悪いとは申しませんが、いまの自分とつながる捉え方を少しもしないままに、まるで道徳の本でも見ているみたいに、「私たちもこれに倣って何々しましょう」というような掛け声しか挙げず、結局その美しい道徳的建前をなにひとつ行うこともできないでいる、そういうことを繰り返し、霊などとは無縁の集まりとなっているのだとしたら、その組織は、死んだものとなるでしょう。
 
私は、ペテロでありたい、と今日は思いました。失敗ばかりです。気持ちばかりが逸って、空回りします。イエスの思いを適切に理解などしていません。思い込みから、恥ずかしいことへ突っ走る傾向もあります。そしてこれらのユダヤ人の裁判を、遠くから見守るくらいしか、できませんでした。
 
それでも、遠くからでも、従っていました。そして鶏というきっかけによってですが、イエスの言葉を適切に思い出しました。鈍い反応ではありました。それでも、イエスの眼差しを心の底にまで届く光線のように受け止めて、自分の奥深い心と向き合いました。そして自分には何の善いところもない、という縁に立って、その愚かさを嘆き、泣き崩れました。
 
ペトロは、こんなふうでしたが、やはりイエスに従ったのです。自分は何もかも捨ててあなたに従いました、と誇るような気持ちは、もはや微塵もありません。聖霊を受けて力を受けたのは、もう少し後の出来事ではありますが、いまここでペトロは、強烈な回心の中にあったのだ、と私は受け止めました。
 
だからこそ、伝説ではありますが、殉教に至るまで、主の声を聞き、イエスの足跡を追って前進していったのであるに違いありません。この後、キリスト教会がペトロをベースに形成されていったことを、忘れてはなりません。
 
イエスは、思い込みで決めつけている当局に対しては、あなたがたは信じない、という事実を以て淡々と語りました。鬱憤晴らしの下役には何の反応も示しませんでした。しかし、ペトロに対しては違いました。ペトロを、イエスは見つめました。
 
私たちは、受難節へと向かって歩いて行きます。自分が、どのような型の人間であるか、省みつつ、歩いて行きます。そのとき、十字架を目指して進まれた主イエスの歩みに、少しでも近い景色が見えたら、と願います。基よりイエスと同じ地平は見えません。しかし、少しばかり遠くからでも、イエスに従って行きたいものだと願います。そのためには、自分を嘆くことが必要です。我が身を嘆き悔い改めときに、イエスの眼差しを受けることになるのです。

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