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フジテレビ問題から考えた二つのこと

世間を賑わしていることに、無関心でいるわけではない。フジテレビの件は、最初何のことか全く分からなかったが、報道が過熱する中で、ようやく人並みに事態がうっすら理解できるほどになってきた。
 
事は、一テレビ局の存続に関わるほどに大きくなってきた。よく人間関係でも「こじれる」という言葉があるが、組織と社会でも、そうしたことが起きるのだと思った。
 
事態については、私は何も知るところがない。事柄については判断をしかねる。せいぜい他山の石としたいことを考える程度ではないか。
 
ひとつは、誹謗中傷である。謂れのない関係者のことを、罵る者が少なからずいるのである。私たちは、幾人もの犠牲を、もうなんら気にしてすらいないのだ。社会的にもずいぶんと広まってきた教訓を、全く無視することができるほど、愚かなのだ。
 
時期を同じくして、神戸でSNS中傷に関する大きな報道があった。これに関して、兵庫県警察が、異例とも言える投稿をしている。私は先にそれを見かけて、これが多くの人の目に触れてほしいと思ったが、その後に、それが報道という形で取り上げられたことを知った。
 
「SNSを利用の皆様へ」とまず呼びかけ、「確たる証拠がないのに、推測臆測で人を傷つけるような書き込みをするのはやめましょう」などと書かれている。これは、兵庫県で虚偽の情報が乱れ飛んだことを踏まえてのことだと思われる。
 
記事は「それが正義感に基づくものであったとしても刑事上民事上の責任が生じる場合があります」と結ばれているが、軽々しく自分の「正義感」を発言でき、しかもそれが公にどこまでも拡がってゆくことへの認識を促しているとみられる。もちろん他人事ではない。現にいまこうして、私は私の「正義感」を示していることになるからである。
 
だが、県警が意図していたかどうかは不明だが、このフジテレビの件についても、この記事が重くのしかかっていることを感じた人も多いのではないだろうか。
 
もうひとつは、悔い改めである。キリスト者で、悔い改めをしたことがない人はいない。日本語で「悔い改め」というと、独特のニュアンスが加わるかもしれないが、原語の意味が「方向転換」の意味を含むことを、説教者は必ず説明する。神に背を向けていた者が、神の方に向き直るのである。
 
事件のタレント自身についてはとやかく言うつもりはない。ただ、背後で動かした企業の責任者が、責任を担う気配が全く漂わない仕方で、偽の「悔い改め」をしたことが、今回の騒動の最大の契機となったことは否めまい。テレビ局自身が無責任さを露呈したとなると、テレビ局を支えるスポンサー企業が離反することは、当然の動きであると認められるだろう。
 
私もまず自分の「悔い改め」について初心に返るべく促された。キリスト者一人ひとりの「悔い改め」もまた、問われて然るべきなのだろう。まして、魂の配慮を担う牧会者が、それをいい加減にするとなると、教会そのものの存続にすら関わる問題となることを、教訓として得たはずである。そして「悔い改め」もなしにそうした職に就いた者がいたならば、もはや教会とは呼べないことも、これで痛感しなければならないだろう。
 
私もまた、このように尤もらしいことを言って、ある人々の傷口に塩を塗っていることを懸念する。その意味では偽善かもしれないが、どうか苦しんでいる人の心に、守りがあり、光が与えられることを、切に願っている。

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