信用されるかされないか
使徒9:26-31
すでにサウロはイエスと出会い、イエスをもキリストであると語り始めていました。そしてすでにユダヤ人たちからは、裏切り者として命を狙われ始めていました。この前の箇所に、「サウロの弟子たち」が登場しており、サウロを助け出しています。この言葉には、これまで殆ど注目がされなかったような気がします。
若きラビとしてのサウロに、弟子と呼べるような人がいたのかもしれません。しかし彼らもキリスト者になったのでしょうか。それともそうでなくても、自分の師匠だからとサウロに味方していたのでしょうか。デモそうすると、自分たちも命を狙われる危険に遭います。師弟の関係というものがどういうものであったのか、よく分かりません。
しかし今は、サウロと、イエスの弟子たちとの関係のほうに目を向けましょう。サウロは信頼されてしませんでした。キリストの弟子たちから見れば、あの悪漢サウロです。それが仲間ですよなどと言われても、信用できるはずがありません。きっと内部に忍び込んで、そこで大暴れして教会内部を破壊して一網打尽にするつもりなのだ、と疑われるのです。
バルナバは、サウロの回心について最初からよく知っています。それでサウロを弁護します。それでなんとか仲間に入れられるのですが、よく見ると、人々がサウロを信用した、というふうには書かれていません。自由に出入りすることは許されましたが、心許したような表記は少しも見当たりません。遠巻きに眺めていたのではないでしょうか。
義理なのか分かりませんが、殺されかねなかったサウロをかくまったことはあるようです。この言行録の最後で、パウロがローマで自由に教えを続行できたことが記されています。パウロのキリスト者としての始まりと終わりに、自由が共通していました。それは、何らかの拘束の中での自由でした。命のを脅かされた中での自由でした。考えさせられます。
サウロは信用が完全には得られない中で活動しました。仕方ないと思っていたことでしょう。信用しない方が無理解だとは申しません。信用できなくて当然です。私たちの身の回りにもこのようなことはよくあるような気がしませんか。いえ、そもそも私自身、自分が救われたということを、信用できないのです。こんな自分が神に救われたなどと。
不信仰でしょうか。いえ、俺は救われて当然だ、と豪語するような者がいたら、これはもはやキリスト者などとはほど遠い存在でしょう。キリスト者は罪の中からキリストに赦された者です。感謝するしかありえません。傲慢な者には、そうた自分の救いのプロセスすらもたないのではありませんか。そう、もちろんパウロには、それがありました。
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