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深いまなざし

マルコによる福音書の連続講解説教は、前回、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」という言葉を中心に受けていた。今日も、この箇所が重ねて取り上げられた。これに加えて、ガリラヤ湖のほとりで、シモンとアンデレ、さらにヤコブとヨハネを弟子に招く場面が付け加えられることとなった。
 
後者は、しばしば「召命」という意識でも読まれることがある。神に呼ばれて、神の声を聞き、キリスト教伝道者となるべくその第一歩を始めるきっかけとなり得る聖書箇所であるのだ。「人間をとる漁師」という魅力的な言葉がここにある。もちろん、言葉の響きだけで、人身売買のような誤解が生じることはないだろうが、もう少しエレガントな日本語はないだろうか、とよく思う。
 
さしあたり、説教はこの4人を招く場面から説き明かし始める。網を捨てたことのうちに、生活を捨てたという事実を重く受け止める必要があるだろう。だが、福音書は事の次第を、村上春樹の小説のように、事細かく描写するようには書かれていない。私たちは福音書の、特にマルコ伝の、あまりにもあっさりした書き方の中に、現代病的な「不安」を覚えることがあるが、あまり詮索しないほうが賢明であるだろう。マルコが伝えたいのは、彼らの生活の事情ではないのだ。
 
説教者は、マルコ伝の「すぐに」という言葉の多さを象徴的に扱い、ここにある文自体も、実は原文で非常にシンプルであることを明かす。構文としては、言いたいことの部分の、先頭に動詞があると言ってよい。耳で聞くと、パンと言葉が聞こえてくるとき、「歩いた」「見た」「言った」と、小気味よいリズムが響いてきただろう。この辺りは、日本語訳から感じることは不可能である。
 
特に、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」、そして「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になる」という部分にある、「見た」という動詞に説教者は注意を促した。
 
「見る」という動詞は、聖書を見る上でひとつの重要なポイントであって、英語でもいくつかの「見る」があるように、ギリシア語にも、それがある。日本語は基本的に「見る」だが、「見やる」「見つめる」「視線を送る」など、ニュアンスの異なる同類の語はたくさんある。「観る」とか「看る」とか、漢字を使い分けることによって表現することもある。
 
ここでイエスが、二組の兄弟の漁師を「見た」のは、ただ「目に映った」というだけの意味では使わない、と言います。強い視覚を思わせ、「心で見る」様を思い起こさせます。「じっと見る」「鋭く見つめる」とでも言えばよいでしょうか。知覚的な鋭さを思わせます。たとえば、「深いまなざし」などと言うと、やや象徴的になるでしょうか。
 
この「まなざし」というテーマが、今日の説教の軸となる。このイエスのまなざしが、いまここに、私たちへも向けられている、ということを意識しなければならないのだ。このまなざしを覚えつつ、私たちはこの後、しばらく説教の光の中を歩むことになる。
 
たとえ私たちが、いま目を閉じて祈っていなくても、特別に拝むような仕草を見せなくても、キリストにある者が何人か集まれば、そこにイエスはいる、という保証が与えられた。私たちの心に、神でなければ埋められない穴があるとするなら、そこに神は惜しみなく愛を注いでくださる。そして、えもいわれぬ温かなもので、この胸を満たしてくださる。
 
説教者は言う。「イエス・キリスト抜きに人生を語れぬのが、キリスト者である」と。
 
天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。(エフェソ1:4)
 
さらにこの箇所を取り上げて、神の「選び」を確認させた。私たちの罪は、もはやないものとして扱い、呼び集めてくれた。さあ、この祝福の中に帰ってこい、と呼びかけながら。このとき、イエスは私たちを見つめている。「深いまなざし」を送っている。それは、私たちをすっかり見抜いている。
 
見抜かれることは怖いことでもあるが、もしかすると、見抜かれていることは、かけがえのない安心感であるかもしれない。幼い子は、親に完全に見られている中で、冒険ができる。自分がどう危険か、見ていて知っていてくれる。できなければ、止めるだろう。転んでも、助けてくれる。できたら、褒めてくれる。こうして、親を通して、「世界は信頼できる」ことを覚えてゆく。まことに、幼子のようになることは、神の国に入ることと、全く同じことであるかもしれないわけである。
 
「私に付いて来なさい」、あるいは「お呼びになった」、とそれぞれの兄弟に呼びかけているが、要するに「従え」ということである。説教者は、この言葉についてもギリシア語から説く。そこには二つの語が並んでいる。英語なら、差し詰め「come after」ということで、正に私の後に来いということなのだが、それは「come behind」の感覚も有しているのだ。
 
思い出すのは、この前置詞は、あの場面でも使われていたことだ。
 
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」(マタイ16:23)
 
「引き下がれ」の箇所にこの前置詞がある。そのニュアンスは「後ろへ」である。これは、単にペトロを非難したのではない、という理解ができる。イエスは、「私の後ろに来い。私の背中を見ながら、これから歩いてついて来い」と、ペトロを護っている、というのである。
 
実は同じことが、今日のマルコ伝でも言える。イエスは、自分の背後にいろ、と言ったのだ。そして、ついて来るように、と告げたのだ。説教者はそのことを語ると、前回から引き継いだ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言ったことと、「私に付いて来なさい」と言ったこととをリンクさせる。これらは別々のことではないのだ、というのである。イエスの背後につき、ついて行くためには、神の国という目指すところがあること、そして神の方へと方向転換をして、神の言葉に絶対的な信頼を置くことが必要だったのである。必要だったとは言っても、条件だとか前提だとか考えるべきではない。これらの二つのことは、引き離すことができない、一つのことであるに違いないのである。
 
この辺りで説教者は、少しフライングをする。次回扱う箇所に足を踏み入れるのである。
 
一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。(マルコ1:21)
 
この「会堂」というのは、ユダヤ人が地域で礼拝するために建てられたものであるが、キリスト教における「教会」の原型となったように見ることができるであろう。「この会堂に汚れた霊に取りつかれた男」がいて、イエスが悪霊を追い出す場面がある。汚れた霊がいたのは「会堂」なのである。「教会」に、汚れた霊がいた、という点に、説教者は意識を向けさせた。
 
即ち、私たちの世でも同様なのだ。教会だけは清いところ、例外的なところ、というわけではない。むしろ悪魔は教会にいる者を攻撃してくる、という捉え方もできる。そして、この説教者には、礼拝において珍しいことなのだが、世間に溢れたものへの批判を強く表に出した。それを説教者は「時代精神」と呼び、幾度か繰り返した。
 
強い口調で相手を攻撃し、マウントをとって「論破」することが偉い、というような空気が、世の中には確かにある。これを強く告げたのである。もちろん私もふだん、そのような点については、散々批判をしている。だからつくづくそう思うのであるが、私は最近、それは非難されるばかりであってはならない、と考え始めた。それは、実は非常に「恐ろしい」ことなのだ、と気づかされたのである。人々が「考えることがなくなり」、「感情的に一気に、破滅の方向へと動き、流れてゆく」ことを懸念するのである。
 
説教者はさしあたり、礼拝する人の心の中にもこの「時代精神」というものが忍び込んでくる、という警告を与えて、その場から離れることにした。これはまた、次の講解説教で扱われるかもしれない。今日の聖書箇所からすると、勇み足であったかもしれない。
 
次いで、説教は先週他の教会での説教奉仕をしたことについて、説明を始めた。時折、他の教会に呼ばれて、あるいは何か他の様々な企画の関係から、全国各地での礼拝奉仕に出向くことがある。その教会のことは、いまここで取り上げる必要はないと思われる。事情は定かではないが、牧師が機能しない教会を、信徒たちが長年にわたって共に礼拝することを続けて、信仰を継続させた、というようなところであったという。環境的には厳しい教会なのであるが、そこには明るい賛美の歌声が響いていたのだそうだ。
 
しかし、それは信徒たちの信仰が強かったからできた、というものではない。説教者はここで力を入れた。強いのは、いわばイエス・キリストの方である。イエス・キリストがそこへ歩いて来て、傷ついたその信徒たちに、まなざしを向けていたこと、それこそが、彼らを立たせたのである。
 
私たちは、人間の世界での信仰の出来事に対して、彼らはどういう思いであったのか、知りたいと思う。素朴な関心である。聖書に登場する人物についても、このときどのような思いだっただろうか、と想像する。人間の側の動機を、探りたいと思う。だが、この出来事についての動機は、神の側にある。動機はイエスにある、と説教者は強く告げた。
 
サタン呼ばわりされたようなあのペトロが、イエスの後ろに回り、イエスの背中を見ながら歩いて行った。ペトロの誠実さがその後の歩みを護った、と説明するのは簡単であるかもしれないが、そうではないのだ。ペトロの側に動機がなくても、イエスのほうに動機があったのである。
 
「天地創造の前に、キリストにあって私たちを」選んだ神が、イエスというひとつの具体的なまなざしを設けて、弟子たちを見つめていた。その同じイエスが、いまも私たちを見つめている。深いまなざしを、確かに送っている。イエスの背中に周り、その背中を見ながら歩くことができる、という意味では、ペトロも私たちも同じである。
 
もし私たちが力尽きそうになったとしても、イエスはその都度振り返り、見つめることだろう。その目力に、私たちはまた立ち上がる。もしも、それでも歩けなくなったら、あの詩のように、イエスは私を背負って歩いてくださるかもしれない。

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