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春から初夏にかけて

先月から、また駅前に2人組が立つのを見るようになった。「パンフレットスタンド」というのだろうか、カタログやチラシを半分見せながら幾重にも置いて、自由に持って行くことができるようにしたものを間に、2人が立っている。男女共にきちっとしたスーツ姿である。
 
その日は、乗る駅、降りる駅で、どちらにもいた。じっと立っている。通行人がいくら通っても、直接話しかけるようなことはない。2人はにこやかにしている。談笑している場合もあるが、概して両手を軽く前で組んで、通行人をじっと見ている。
 
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そんなふうなことが書いてある。お分かりであろう。エホバの証人である。各地にある「王国会館」から遣わされて、いまいちばんポピュラーな活動は、この駅前や街頭での立ちんぼうなのである。
 
家庭にいる女性が多く入信し、しばしば子どもを連れて家々を訪問し、話をもちかける、というのが従来のスタイルであった。輸血拒否や武道授業の拒否など、「教義」に基づく騒ぎが以前からあり、とくに輸血拒否については、人命に関わることから、人権などと、信教の自由との関係で物議を醸しており、いまなおすっきりとした解決は見られていない。学校授業についても、裁判沙汰になっているものがある。
 
最近は、子どもを厳しく育てる「教義」により、子どもに暴力を振るい、あるいは虐待している、という問題が大きく取り上げられている。統一協会関係からの「宗教二世」の問題で浮上したと言えよう。先日テレビでそのルポが放送され、被害対策関係者に高評価されていた。
 
統一協会にしろ、エホバの証人にしろ、その特質などを、知らない人は全く知らないわけで、しかもクリスチャンたちの間でも、よく分からずただ「異端」と呼んだり、気持ち悪がっていたりするだけ、という場合もよくあるようだ。実際にその人々に触れたことがないかもしれないし、よく調べたこともないのであろう。しかし、彼らからすれば「クリスチャン」というのは、最優先のターゲットになることがあり、純粋にかの「教義」を信じる人々からすれば、間違いを教えてあげなければならない者たち、という認識をされていることがある。
 
因みにエホバの証人の言い方だと、「聖書」にはこう書いてある、というふうになるのだろうが、より正確にはその「教義」に書いてあることである。それでも、彼らはどうであれ聖書をとにかくよく研究している。だから、並のクリスチャンが「聖書」を間に置いて議論しても、太刀打ちできないものと思われる。
 
さて、この春の時期に、エホバの証人が人通りの多いところでそうやってにこやかに振舞っているというのは、本部からの大キャンペーンというところであろうと思われる。もちろん、やたら話しかけると迷惑行為で通報されることを考慮している。不気味なくらい、じっと立っているだけである。一日中そうすることで、徳を積むような意味もあるのだろうか。多くの人にアタックしなくても、「選ばれた者」があるという確信なのだろうか。
 
新しい環境で新年度をスタートする時期である。希望に溢れる人もいるだろうが、こんなはずではなかった、と落ち込む人も少なからずいるだろう。新しい環境に慣れずに悩んでいる人や、周囲と人間関係で苦しんでいる人もいるはずだ。そこへ、なんだかにこやかな人が毎日駅前に立っている。見ると、無料で聖書を学べる、と書いてある。聖書、そういえば人の悩みや苦しみに応える類いの本だというくらいは聞いたことがある。よく知られたクリスチャンがいることで、却って「聖書」に導きの糸がついてしまうのである。
 
統一協会も、大学で勧誘が激しいのはよく知られている。新入生が孤独を覚えたり、新生活に慣れず困っていたりするのを見越してのことである。表彰まで受けたすばらしいボランティア活動をする団体というふれこみで、そのように誘っていた原理研究に勤しむサークルが、元首相殺害以後、実態を明らかにされ表彰を取り消された、という報道も記憶に新しい。が、もう今年はそうしたことが大きな話題として知られなくなっている虞がある。
 
オカルトやスピリチュアルが蔓延して久しい。昨今『亜宗教』という題の新書が出版された。宗教学者の著によるものだが、そうした現象がかなり詳しく紹介され、人の心がそうしたものに誘われていく様子が記されている。著者の考えには私は同意できない部分が多々あるものの、動向を知るには便利かもしれない。
 
そしてその本では、いわゆる伝統宗教の衰退が著しいことと、その背景についても多々書かれていた。クリスチャンは敬虔で教会は心清らか云々、などという幻影については、クリスチャン自身は否定するが、多分にその甘い幻想そのままに構えているような気がしてならない。日本は経済的に豊かだ、日本人の子は成績がいい、などという幻想に浸っている間に、凋落が甚だしい、といった報道がよくなされるが、それでもそんなに危機感は懐いていないのと、少し似ている。
 
人口減少も、政府が「異次元」と、まだオブラートに包んだような言い方で懸念しているが、事態は深刻である。そう言うと、政府が悪いのだとか、人口増加がすべてではないとか、減少する文明のほうがよい理由があるとか、いろいろな弁明が雨後の筍のように出てくるものである。
 
伝統宗教は、この時代の変革の中で、従来のままではもういられないはずである。呑気に年中行事をどうこなすか、ということにかまけている場合ではない、と私個人は考える。信徒の増加を図るのだけがすべてではないと思うが、増えなくてもよい、と開き直って自分の責任を回避する手を打つような、無責任な方針を立てるべきではないだろう。今後、教会数や信徒数は、間違いなく減少するであろうし、さらに言えば、多く集うところとそうでないところと二極分化するであろうと私は予想している。後者がかろうじて残れば幸いであるだろうが。こうしたことについては、折々触れているので、いまとやかく申し上げはしない。
 
ともかく、くれぐれも、この春から初夏の時季に、ひとの心というものには注目していなければならない、と思っている。

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