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年末年始特集・小説「ヤエル」2

 ヨルダン川を下ると、はるか彼方で塩の海に水は注ぐ。そのいくらか手前には、このカナンでもっとも古い町と言われるエリコの町がある。さきにヨシュア率いるイスラエル軍により制圧され、一時誰も住む者がいなかったが、最近、再びこの町が興された。エリコ周辺にはなつめやしの木が群生する。そしてエリコからエフライムの山地に上る途中に、当時イスラエルの指揮を執っていた女預言者、デボラがいた。

「どうにも、折り合いが悪いのです」と、ユダの町の長の一人がデボラのもとに来て、訴えた。「エブス人の生き残りが、ベニヤミン族の者と、なにかと衝突するのです。先日も、どちらが井戸を先に汲むかといった程度のことで争い、一人のエブス人が殴られて怪我をしたというのです。今回エブス人側がこらえたからよいようなものの、へたに刺激をするとまずいことになりはしないかと思うのです」

 デボラは、頭からベールを垂らし、顔の上半分だけを見せていた。目尻の皺は隠せないが、まだけっして年寄りと呼ばれることのない年齢で、むしろ肌はつやつやと輝いていた。デボラはなつめやしの陰に座ったまま、目を閉じるようにして男の話を聞いていたが、ここでひとつ尋ねた。

「あの、エルサレムに住むエブス人ですね」

「そうです。ヨシュアが王を殺し、ヨシュアの死後ユダの人々が町を焼き払った、あのエルサレムの住人です」

「イスラエルに、恨みもあるでしょう……」

「そんな、同情している場合ですか。われわれにとって、危険なのです。滅ぼしてしまわなくてよいのですか」

「もし滅ぼしてしまったとする」とデボラは説明するように言った。「このカナンの地に、まったきイスラエルの国が完成し、いかなる他の民族もいなくなった。すると、次の世代の若者は、どんな環境で育つことになるか。自分ではなにも戦うことをしなくて済むような、安穏とした平和の中で育つことになるでしょう。戦い方を知らない者たちだけが残った百年後のイスラエルは、どうなっているでしょうか。このカナンの地は、東西の交通の要地であり、外部には敵が多くいる。そうした敵ににらまれたとき、もう誰も戦う術なく、イスラエルは滅ぼされてしまうでしょう」

「だから、エブス人のような者が残っていることは、意味があるというのですね」

「そうです」とデボラはうなずいた。「イスラエルの神、主は、そうやってイスラエルを守っておられる。もしも急にすべての古い 町々が滅んだりしたら、野獣がはびこり、危険な地帯ともなりかねない。そのためには、適当に人が各地に住んでいたほうがよい、という配慮も、主にはあるのです」

「神の知恵というものですか」

「だが、心して聞くがよい。主はまた、試しておられる。イスラエルがはたして、主に従うことができる民であるのかどうか」

「ヨシュアの時代、シケムでの契約により、イスラエルは主に仕えることを約束しました。すべて神の教えの書に記され、大きな石を聖所のテレビンの木のもとに立てて、証拠としてあります」

「それで、イスラエルは今、主に従っているといえるのかどうか……」

 鋭い眼差しに刺し貫かれて、ユダの長は返答に窮した。

「イスラエルは、この地に定住してからというもの、農耕が主体となった。自然と、豊作を祈願する心が芽生え、そのために農耕の神を礼拝するようになった。たとえば、雨をもたらすバアルの神などを」

 男は口元を震わせながら、思わず立ち上 がった。

「エブス人が問題なのではない。イスラエルがイスラエルでなくなっていくことこそが、大問題だとわきまえよ」

 デボラの側近の兵たちが、男を取り押さえた。デボラは彼らに、手荒く取り扱うな、と言った。

「家に帰してやりなさい。本来のイスラエルの律法からすれば、バアルの神像を拝むような者は、石打の刑に値する。必ず殺されなければならない。しかし、それを厳密に行うと、イスラエルの民は、ほとんど殺されてしまうことになりかねない。情けないことだが、ここは家に帰らせるしかありません。今日のことからなにかを学んで、これからの仕事に活かしなさい」

 こうしてデボラは、また孤独に戻るのだった。

 デボラは、自分に託された主の言葉によるイスラエルの参謀としての役割を果たさなければならなかった。ラピドトという夫はいたが、夫はこの妻の特殊な能力の前には無力 だった。妻がイスラエルの神、主の言葉を忠実に守り、それを人々に理解させていく知恵と力は、まさに天からのもの、賜物だった。ラピドトは、祭司の資格を得て、イスラエルの民のために犠牲を献げていた。デボラが聞いたさまざまな罪のために、とりなしの祈りを地道に捧げるばかりだった。

 イスラエルはカナンの地に侵攻した後、南北に広がって各地を治めたが、周辺の大国のように、イスラエル全体の王を立てることはしなかった。イスラエルの王は、あくまでも唯一の神である主だという認識があったためである。ヨシュアは後継者を置かなかった。それにより各部族は各部族で独立して歩むように示された。しかし、在来の民族や掠奪者たちからイスラエルを守るためにも、ある種のリーダーが必要だった。彼らは王でなく、それゆえ世襲制をとらなかった。軍事的な知恵と人々の間を裁く知恵とを兼ね備えた有力者が、そのつどゆるやかな共同体としてのイスラエル全体を統率する形で、今日まできていた。

 そうしたリーダーとして、これまでにヨ シュアと並ぶ英雄カレブの甥のオトニエル、ベニヤミン族の左利きのエフド、ペリシテ人を倒したシャムガルがいた。オトニエルはアラムの王を制圧するに至り、エフドは策略により、モアブ王エグロンの脂肪の塊に左手で剣を刺し入れた。これによりイスラエルは、モアブの支配を抜け出ることができた。

「デボラは、イスラエルの伝統的な律法に知恵が深い。主の導きを霊に感じて、われわれに必要な言葉を与えてくれる」

 そう言ってくれる者たちの後押しがあって、デボラはイスラエルの指導者としての立場に座った。だが、批判もあった。

「デボラは女だ。女になにができるのか。神は、男よりも先に、女を立てるというのか。女がそうした立場についたりしたものだから、イスラエルはまた弱くなったのではないか」

 ときに、カナンの王ヤビンが、イスラエルの中でも北部のナフタリやゼブルンなどの部族に強い圧力をかけてきた。ことにシセラという将軍を得てからは、北部を縦横に駆け巡り、農耕に務めるイスラエルの民から暴力的な貢を納めさせ、逆らう者には厳罰をもって臨んでいた。青銅器しかもたないイスラエルの民に対して、シセラは鉄の剣、鉄の戦車で向かってくる。勝負は初めから見えている。

 その北部の者が、デボラのもとに援助を申し出に来た。

「私はナフタリの地ケデシュから参りました、アビアノムと申す者です。今日はデボラさまに、窮状を訴えに参りました」と、白髪交じりの男が言った。「またカナンの将軍シセラが来て、ひどいことをしました。ナフタリの若い娘をさらっていったのです。『税が納められない代わりだ』などと言いますが、われわれはちゃんとカナン王に要求された通りの物を差し出しています。なにかの言い掛かりに過ぎません。要求はだんだんエスカレートしています。次はなにを要求されるか分かりません。お願いです。デボラさま。よい知恵をお授けください。どうか、主の助けがナフタリのもとにありますように」

 デボラの側近の一人が思わず叫んだ。

「もう我慢できない。カナン王の暴掠には、うんざりだ。なんとかならないものですか。なんとか悪を懲らしめてやることは、主なる神には、できないものですか」

「怒りはもっともなこと」とデボラは冷静に告げた。「だが、普通に対処しても、力は明らかにこちらが劣っています。人間が、人間だけの都合で怒りを表に出しても、なんの解決にもならない。待つのです。時がくるのを待つのです。主が自ら立ち上がり、主の風が吹くまで、時を見守らなければならない」

「しかし、もう待てません。今こうしている時にもまた、同胞が故なく苦しめられているかもしれないのです」

 まだ若いその側近は、ナフタリの長老の訴えをすっかり自分のことのように感覚してしまっていた。デボラは、その若さは貴いと 言ったうえで、静かに諭した。

「戦いが、主の戦いとなるのでなければ、勝利はありません。なによりも、憤っているのは、神のほうではないでしょうか」

 アビアノムはひれ伏した。

「アビアノム」とデボラが呼んだ。

「はい」とアビアノムは顔を上げた。

「あなたには、息子がありますか」

「います」

「末の子の名はなんと?」

「バラクといいます」

「バラク……稲妻の意味ですね」とデボラは言い、尋ねた。「そのバラクは、なにをしていますか」

「わたしの助けをして、町を治めるために警備をしています。腕っ節の強いのを活かすのにはもってこいだと……」

「思った通りです」とデボラ目を細めて考えるように言った。「そのバラクに、イスラエルの未来があります。バラクをここへ呼んでください。バラクこそ、イスラエルを救うためによい戦いをなすでしょう」

「まさか……」

「主が示されるのです。バラクが先頭に立ち戦うならば、イスラエルは救われる、カナンの王に勝利する、と」(つづく)

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