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目を覚まして祈ること

説教では、時々「祈り」というテーマの中で語る必要がある。祈りは、教会の要である。また、個人の信仰生活の要でもある。
 
だが祈りとは何か。願いを唱えることか。それもまた祈りであろう。神との対話、というところにひとつの鍵があるものと思われる。しかし、神の御名をくどくど唱えることについては、山上の説教でイエスが戒めていた。長時間ぶつぶつ言っていればそれでよいかどうか、それもまた極端な話だということになる。
 
それでも、半世紀ほど前の信仰書には、誰それが一日何時間祈ったなどという話が溢れていた。それが忙しい現代人の生活を鑑みて、こういう祈りもあるのだ、というような短い祈りというものも推奨されている。
 
どれも尤もである。だが、そうした「形」が基準となるのかどうか。私はいつもそこに疑問符を打つ。自分もそんな立派な祈りはしていない。ただ、もし教会で「公的に」祈る必要があったら、それはある程度「形」を伴ったものとして声に出すことは確かだ。しかし、それが日常的に延々となされているというようなものとは明らかに違う。
 
祈りは信仰だ、という考え方がある。祈りは賛美だ、という理解もある。何かしら、規定しようとする動きが、すでに律法主義なのだ、と断ずる人もいる。
 
きっとそれは、信仰する人の「呼吸」のようなものなのだろう。呼吸をしなければ、人は生きていけない。生命維持の運動である。キリスト者として生きるということは、新しい命に生きるということである。その命は、祈りの運動によって維持されているようなところはないか。曖昧で漠然とした表現であり、抽象的なものの言いがよろしくないとは思うが、この辺りで話題をある程度共通理解の中へもたらしたいと思う。
 
やはり祈りということで、まず目が向くのは、主の祈りや、ゲッセマネの祈りとなるだろうか。しかしまた、旧約聖書を読んでいくと、ダビデやソロモンの祈りに心が留まるかもしれない。もっと前の、ヤコブやモーセの祈りとなると、どちらかと言うと民族のための預言のようなものになるだろう。本日は、旧約聖書からは、ダニエルの祈りが取り上げられた。濡れ衣めいた事態に、また妬みからくる企みに、ダニエルは主への祈りをやめなかった。その祈ること自体が、自分の身を脅かすという情況の中で、なおかつ祈ったのだった。
 
説教者は視点をイエスに移す。ゲッセマネの祈りである。
 
目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:40)
 
マルコは、この祈りの現場に三人の弟子だけを伴っていたことを記している。マタイもそれに倣っている。だが、ルカは、そうした三人を選んだような叙述がない。従って、祈りの場で言葉を告げた相手は「弟子たち」となっている。説教者はこれを指摘した。なるほど、これは私も見過ごしていた。聖書はいかに丁寧に読まねばならないかを教えられる。
 
特定の三人だけではない。「弟子たちに」言ったのである。私たちはどうだろうか。私たちはキリストの弟子ではないのか。そのように胸を張って言えるような立派な存在ではないのだが、確かにキリストの弟子であり、それ以上でもそれ以下でもない。遠慮する必要はない。キリストの言葉に従う者たちの中に、自分は必ず属している。だらしない弟子かもしれないし、きっと落第寸前のような成績に過ぎないのだろうが、それでもキリストの十字架にすがる信仰がある限り、弟子である。イエスが「弟子たちに」言ったのなら、それは私を含む、私たちキリスト者すべてに言ったのである。
 
ルカ伝を愛しているものと思われる説教者は、さすが、こうした細かな点で神の言葉を聴き、それを伝えてくれる。ありがたい。これに続いて、イエスが祈ったところが、弟子たちのいるところから「石を投げて届くほどの所」だったという具体的な表現を使っているのも、ルカの特徴である。そこは、人間の場所から遠すぎることはない。とうてい及ばないような世界の話ではない。しかしまた、近すぎることもない。安易に手が届くようなところでもない。
 
それは、信仰の内実をも象徴するものとなった。イエスは、この苦難をなんとしても逃れられるように、と祈ったのではなかった。そのような結果に心が急ぐならば、人は疲れ切ってしまうだろう。祈りは、待つことをも受け容れるものだった。「御心のままに行ってください」という言葉が、それを表している。
 
これは、明らかに委ねる信仰である。そういう境地になることは、確かに望ましい。人間には難しいだろうが、そうでありたいと思う。しかし、説教者はそこに走って行かなかった。こう言ったのである。「御心のままに」と祈ることは、「目を覚ましている」ということなのである、と。
 
イエスが祈りの後で弟子たちのところに戻る。すると、弟子たちは眠っていた。眠りこけていた。それは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」という最初の命令に全く従えなかった弟子たちの姿であった。睡眠すら誘惑なのか。それもある。だが、本質はそうではない。祈らなかったのである。弟子たちは眠ることによって、結果、祈ることを止めてしまっていたのである。
 
神の御心に委ねるどころの話ではない。神からの恵みが注がれる道を、自ら遮断してしまっていたのである。祈りのないところに神の御心が届かないこと、祈りがなければ神との間の通路を塞いだことになること、それを痛感しなければ、嘘なのである。
 
説教者はこの説教の中で、イエスが弟子たち、キリスト者、そして私たちの「先頭に立って」いることを幾度も繰り返して告げた。イエスは先頭に立って、この誘惑と闘う手立てを教えている。イエスは先頭に立って、私たちが立ち向かえないような敵と、闘ってくださっている。だから私たちは、私たちの先頭に立って進むイエスに、従って行きたいのである。従って生きたいのである。
 
ゲッセマネで祈り終わったイエスは、立ち上がって、弟子たちのところに戻ったという。「立ち上がる」という語が、「復活する」と別の文脈で訳されることはよく知られている。たんに「立ち上がる」であれば、行動を起こすことを示す場合が多いが、イエスが「立ち上がる」のは、「復活する」ことを暗示していると捉えてみたい場面が多々ある。
 
イエスは、立ち上がって、弟子たちのところに戻った。イエスは復活して、弟子たちの前に現れた。私たちは、そのイエスに従うのである。目を覚まして祈ることによって、先立つイエスの後に、従うのである。

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