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完全なものにする (サムエル記下22:31-33, コロサイ1:27-29)

◆ぼくを探しに
 
絵本『ぼくを探しに』をご存じでしょうか。シルヴァスタインの名作です。日本では、まず倉橋由美子さんの訳で1979年に発行されています。これの続編があるのですが、村上春樹さんの新たな訳で2019年に出たのも話題になりました。
 
とくに絵本の紹介には慎重にならざるをえません。内容を明かしてしまえば、絵本の内容をすべてさらけ出すことになりません。著作権法に抵触するかもしれないし、しないとしても、間違いなく失礼で営業妨害となります。人に知らせたい親切からだとしても、それは悪いことです。絵本の読み聞かせを動画として上げることも、もちろんしてはいけません。
 
そこでここでは、本の販売側が示しているような触れ込みならば認められているのか、という意識で、ご紹介することとします。
 
キャラクターは、白を背景にした線描きのもので、円に三角の切れ込みが入っています。ケーキを一切れ切り出したような感じです。ドット画の「パックマン」をイメージすると、だいたい当たっているだろうと思われます。それに、点だけの目がついて、それだけで見事に横顔に見えるから不思議です。
 
口のように見える三角の切れ込みですが、そこはを本人は「何かが足りない」と思っています。「足りないかけらを探しに行く」という動機から、出かける物語となっています。当然、途中でいろいろ出会った相手に「これかな?」と試してみますが、なかなかぴったり合う相手に巡り逢えません。物語そのものは、けっこう長くなりますが、シンプルな絵と、短い言葉の故に、小さな子どもも厭きずに最後までわくわくするのではないでしょうか。
 
そんなかけらを探すまでもなく、自分ひとりで満足するタイプの人も、いるかもしれません。しかし、多くの人は、何らかの形で誰かを必要としてることでしょう。「ひとは独りでは生きていけない」と、多くの歌の歌詞に登場するフレーズの通りです。
 
難しい話になると、ひとは「他者」によって初めて「自己」になる、などという言い回しもあるほどです。とにかく、この『ぼくを探しに』では、ぼくがぼくであるためには、何かが足りない、とずっと感じています。口のように見える部分が「足りないかけら」であり、それが見つかると、自分は完全な円となる、その完全な円を求めている、というような感じです。
 
◆足りないところ
 
この絵本が人気を博したのは、世の中の人々もまた、「何かが足りない」と共感できるところがあったからでしょう。子どもよりも、むしろ大人のための絵本であったのかもしれません。自分だけの世界に、何か足りないものを感じる。独りだけでは空しさを覚えることがある。そんな心を、そっと撫でていくようなストーリーは、当時まだブームではなかった「癒やし」というものを与えたくれたのではないでしょうか。
 
それは、とても健全なことなのだろう、と私は思います。すべてにおいて自分だけで完全だ、と自己満足してしまった人間は、むしろ恐ろしいと思うのです。傲慢になり、自己完結してしまうと、それはまるで自分を神としてしまうようなことにもなりかねない、と危惧するのです。
 
自分の欲求が満たされないことを、他人を見下し悪口を言うことで見たそうとするのは、さもしい心の持ち主です。教会にも、そういう人が来ているかもしれません。その人にとり必要なことは、自分がそのようであると知ることです。気づかなければ、方向転換ができません。いえ、もしかすると、長年教会で奉仕してきた信徒である自分自身が、そうなっているかもしれませんね。
 
自分の中に、「欠け」があるという意識は、大切なものです。人間は神ではない、と口では言っていても、自分の考えは絶対に正しい、と言い張るのであれば、自分には「欠け」がない、と主張しているようなものです。それだと「欠け」の意識が失せていることになるでしょう。ただ、その「欠け」がどのようなものなのか、そこが難しいのです。『ぼくを探しに』の絵本でも、自分の欠けた部分はこれに違いない、と試みることを繰り返しては、「違う」とがっかりするのでした。
 
あなたにも、何か足りないこと、満たされたいという気持ちが、おありだと思います。聖書ではありませんが、17世紀フランスの天才ブレーズ・パスカルの有名な言葉があります。引用は孫引きですが、このような言葉だったと思います。
 
「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋められることができない。」
 
「空洞」でよいのか、もっと奥深い「深淵」のようなものなのかよく知らないのですが、人間の心にある恐ろしい欠落について、それを埋めることができるのは神だけだ、というようなふうにも読めます。パスカルは、あるとき劇的な回心を経験します。そのときのことを書き付けたものをいつも身に着けていた、と言われています。若くして数学の業績を遺し、物理学方面では気圧を世に知らしめた天才パスカルは、それ以降キリスト教信仰を軸に、宗教思想を綴るようになりました。
 
パスカルのみならず、事実、歴史上の多くの信仰者が、神によってのみ満たされる、という祈りを捧げ、黙想し、文章を綴っています。
 
◆哲学における神の完全性
 
信仰者たちは、神により欠けが埋められ、満たされる、という思いで神を見上げました。その神には、欠けたところがないのでしょうか。いやいや、神は完全にお方です。少なくとも、「神」というイメージを私たちが懐くとき、そこに「完全」という概念は当然のように備わっている、と考えているように思われます。
 
キリスト教思想は、ギリシア思想がヨーロッパ文明に合流したことにより、論理的な神学という領域を確立していきました。歴史の中では、ヘブライズムとヘレニズム、と称される構造です。そこで、ヘブライズムでは想定もされなかったことが起こります。それは、神の存在を証明するということです。聖書世界では、神の存在を証明することなどされないし、第一考えてもいません。そのようなことをする必要を、誰も感じなかったからです。
 
そこで、ここでは単純な形でご紹介しますが、神の存在は、次のようにして証明される、と説明されました。存在論的証明などとも呼ばれることがあります。
 
神とは完全な存在である。完全ということは、存在するということを含んでいる。それ故に、神は存在する。
 
この証明は、17世紀の近代哲学の祖とも言われるデカルトにも肯定され、近代哲学もまた、このような神の完全性の理解を当然のものとしていました。但し、それから1世紀後、ドイツのカントにより、この証明の誤りが指摘されたことで、それ以降もはや誰もこれを神の存在証明だ、とは言えなくなりました。
 
ざっくり言いましょう。西洋哲学では、日本語とは違い、哲学思想もたいてい日常語で語られています。日本語では「存在する」とかしこまって言いますが、英語だと「ある」で終わりです。be動詞を使うだけです。同じ「ある」でも、完全「である」という使い方と、神「がある」という使い方とを、同一視することはできない、ということが明らかになったのでした。
 
これは半ば遊びであるしれませんが、「神が完全であり全能だというのならば、神が持ち上げられない石というものを創造できるのか」という問題もあります。パラドックスが発生します。「神は四角い円を創造できるか」といった点に及ぶと、何か言いくるめられそうな気がするかもしれません。しかしこうした問題は、「神が悪を創造したのか」といった、神学的にも深いところに目を向けさせてきた歴史があり、実は侮ることはできないのです。
 
◆神の道は完全
 
人間が考え及ぶ「完全」というものと、何か違う意味で、神は完全である。どうやら、そのように見なしたほうが適切ではないか、というように思えてきます。肝腎の聖書は、神の完全性について、どのように告げているでしょうか。
 
サムエル記下22章、実はこれはダビデの生涯を描き終わる前に、記者が、「敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に」(1)主に献げた歌で埋められている章です。詩編では、18編に収められています。
 
31:神、その道は完全であり/主の仰せは練り清められている。/主は御もとに逃れる者すべての盾。
 
神の道が完全だというのですが、そもそもこの「道」というものが怪しい気がしませんか。日本人は、運動や芸事に、精神的な成長のようなものを含ませて考えて、「道」という言葉で呼ぶことがあります。格闘技も柔の道たる「柔道」ですし、剣の道たる「剣道」です。花を飾るのも「華道」で、茶を飲むにも「茶道」があります。そう言えば「まんが道」という言葉もあり、それは、藤子不二雄の自伝的漫画作品でした。
 
実は今でこそ「キリスト教」と呼びますが、かつてはそのような言い方がありませんでした。どうやらそれに相当するのが「道」であったものと思われます。いまも教会用語として「求道者」という言葉があります。まだ教会員ではないが、神と信仰を求めている人のことです。正に「道」だと呼んでいるわけです。
 
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。(使徒9:1-2)
 
この「道」がキリストを主と仰ぐ教え、つまりキリスト教と私たちがいま呼ぶものであることは明らかです。
 
さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロと言う雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道をよく学び、イエスのことについて熱心に語り、また正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった。このアポロが会堂で堂々と教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。(使徒18:24-26)
 
アポロにまつわるこの場面では、キリスト教を指すと共に、日本人の「道」理解に沿ったような意味を感じるのは、私だけでしょうか。
 
31:神、その道は完全であり/主の仰せは練り清められている。/主は御もとに逃れる者すべての盾。
 
神ご自身のみならず、神の教えもまた、完全であるということをダビデは称えていたのです。いえ、それはただの教えというに留まらず、神のなさること、神の業の完全性を伝えていたのだと思います。
 
◆リスボン大地震
 
しかし、神が完全である、という件については、待ったがかかる場面があります。神が完全であるのなら、どうして災害があって、善良な者が不幸に遭うのか。そういう問いが投げかけられるのです。災害に留まらず、善人が悲惨な人生を過ごし、悪人が裕福で笑顔ばかりでいるのはどうしてか、疑問に思わないキリスト者はいないのではないでしょうか。
 
もちろん、それに対する、信仰ある説明は多々あります。特に、哲学者ライプニッツが、この世界は神の最善に満ちているとして、「神義論」または「弁神論」と訳される語を18世紀初めに提唱したのは有名です。これにより、ライプニッツの世界観は、楽天的世界観と呼ばれました。神への信頼の最高の度合いを示すものだとも考えられ、聖書に忠実で敬虔なクリスチャンであれば、こう捉えたい、というようなものだろうと思います。
 
しかし、その半世紀後に、このライプニッツの最善論を嘲笑うようにして、『カンディード』がヴォルテールにより著されています。それはそれはめちゃくちゃに茶化した喜劇です。1755年11月1日に、リスポン大地震が発生しました。その日、ポルトガルの首都リスボンは、日本の盂蘭盆会に相当するような、万聖節で賑わっていました。この前日を今ではハロウィーンとして祝う、あの日です。ルターの宗教改革もこの祭りの人出を狙って張りだしたという質問状が発端になったというように言われています。
 
午前中に発生したその地震は、推定に過ぎませんが、東日本大震災と同規模ではなかったかと考えられています。津波は30mにも達したと言われ、数日間火災が続ています。阪神淡路大震災での火災の連続は、特に時間が空いてからの火災は、いわゆる通電火災も多いと言われていますから、リスボンの場合にはとにかく被害が途絶えず続いていたということになるのでしょう。市民の三分の一が亡くなり、建物の8割以上が崩壊したのではないかとも目されています。
 
この地震のため、大航海時代にはスペインと並び世界の覇者と呼ばれていたポルトガルが、あっという間に没落していきます。その没落はひとつの国だけではありません。キリスト教をも崩落させていったのです。お分かりでしょうか。キリスト教のお祭りの日に、世界一栄えていたような都市が壊滅したのです。キリスト教は人々を守れなかったのです。これを神罰と見ることを留める力は、もう教会にはありませんでした。現代の震災でも、神罰だと叫んだ政治家もいますし、キリスト教団体の中にもあったのです。
 
キリスト教への信頼性が薄れ、啓蒙思想と科学思想の力が強くなる一方となっていきます。また、かつてならば神の出来事のように見られていた地震が、科学的に調べられていくきっかけともなりました。それは哲学者カントが、まだ若き自然科学者であった時代にこの地震について、当時としては驚くほど的確に、地震のメカニズムを推定したことに始まります。
 
神がいるならばどうしてこのような悲惨なことが……という疑問を懐くのは、しばしば、自分の中で何でも説明してしまいたい人であるかもしれません。しかし一方で、その人もまた神を信じているからこそ、そう問うのだろう、とも思います。そもそも神を信じていない人は、そのように問うことはないはずだからです。問うのは悪いことではありません。ただ、すべてを自分が説明してやろう、という欲求は、必ずしも健全な信仰生活を導かないようにも思われます。
 
◆私の道も完全
 
神が完全であるというのは、人の思いを超えている神を思うときに、人間が称えた表現であるのかもしれません。神のことは、要するに分からないということです。
 
ところが、人間の手の届く範囲に「神」を置こうとする見方が、私たちには根づいているように思われます。日本の思想では「神」は、すぐれた人間のことを指す言葉でした。並の人間よりも上に立つから「上」即ち「カミ」であり、「神」の概念が定められていったように見受けられます。「お上」や「カミさん」と、何の気兼ねもなく「神」呼ばわりするのが当たり前であり、「漫画の神様」や「エンタの神様」など、優れた人は「神」になります。優れた意見がネットに現われたとき「神降臨」と騒ぐくらいなら、まだ無邪気なようでもありますが、人が死んだら神になる、という前提で誰でも祀るとなると、デリケートで重要な問題になってしまうでしょう。そうして何にでも、優れたものに対して手を合わせて拝むということにもなるわけです。
 
いえ、私もかつてはそうでした。哲学科にいたころに、京都の街を歩いていて、地蔵尊などに手を合わせる私を見て、哲学科の院生が、「君の本質が分かった」と言われたことがありました。私は不思議でした。自分としては、ごく当たり前のことをしていたと思っていたからです。小さな頃からそういう尊いものに対して手を合わせるようにしていたからです。
 
32:主をおいて誰が神であろうか。/我らの神のほかに誰が大岩であろうか。
33:神は私の堅固な砦。/私の道を完全なものにした。
 
しかしいまでは、主をおいて他の何かを神とみることはありません。もとより「神」という言葉が表すものの意味が全く違うものになっています。この神は世界を創造し、人間を愛するがあまりに人となり、人を神に戻すために死をも味わわれました。でも神は死んだけれども、死んだままでいるわけではありません。復活して、神は生きていることを改めて人間に思い知らせました。
 
神のシナリオそのものには、不備があるわけではありません。人間にはそのすべてを読み解くことはできませんが、神の予定した計画について、人間が不満を言える立場にはないということです。この神のあまりにも偉大さを前にして、ダビデはその僕、つまり奴隷であるのだという自分の位置づけについて、ブレたことはありませんでした。
 
だから、神は「私の道を完全なものにした」のです。ブレない信仰が可能になったのです。もちろん、私は全能になるのではありません。私は非の打ち所のない人格者になるのでもありません。
 
だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。(マタイ5:48)
 
この箇所も、「完全」ということに関してしばしば引かれます。いわゆる山上の説教の一部です。ここだけを見ると、神の完全と人の完全とが同じものであるかのように見えますが、とうてい同一であるはずがありません。ダビデは「完全なものにした」と言い切り、イエスは「完全な者となりなさい」と、可能性を将来にもたせています。私はきっとどちらも適切であるのだろうと考えます。「いまだ完全にはなっていないが、すでに完全にされている」という意味不明なような言い方にも、きっと意味があるのだろう、と。
 
◆神が完全にする
 
2015年からイオングループに入りましたが、株式会社ダイエーは、いまも残っています。福岡県人としては、かつての福岡ダイエーホークスの名を忘れることはできませんし、ライオンズが去って後のプロ野球のために、また福岡の経済のために、どれほど貢献してくれたか、感謝するばかりです。
 
ダイエーのマークとしては、2代目の「D」を少し傾けたものが私には懐かしく思えます。1975年から2005年まで用いられていました。現在は、ハートと「d」を中心にデザインされたものが中心です。でも、近年は先の「D」のほうも再び使うことがあるとも聞きます。上弦の月のようにも見えますが、円が少し欠けている、と言ったほうが適切であるようにも思えます。これには意味があり、いまのままでは「完全」ではないということを暗示しているそうです。現状に満足することなく、完全さを求めて進んでいく気持ちを表しているのでしょう。常に未完成の状態であるというのは、不完全でダメだ、ということではありません。それは、いつまでも成長し続けることを宣言していることになるはずです。
 
これは学ぶべきことです。人間は不完全なのです。自分を見ると、「欠けだらけ」でしかありません。教会での祈りに、かつては「欠けだらけの人間」というようなフレーズがよく聞かれました。最近、聞いたことがありません。それは、祈りの中に「罪」という言葉が消えかかっているのと並行しているような気がします。また、それは説教の中に「罪」という言葉が使われなくなってきていることに基づくのではないか、とも推測しています。
 
ダイエーのマークのように、人間は欠けています。「欠け」があります。『ぼくを探しに』では、「足りないかけらを探しに行く」歩みが物語となっていました。その足りない「欠け」をパスカルは神のみが埋めると告白しました。人間の欠けたところを、神が来て埋めてくださる、というその信仰に立ってみましょう。円の欠けたところを、神が埋めてくださいます。神が来てくださると、円になります。円は一種の完全な図形です。
 
そうです。人間が自ら完全になれ、と聖書は命じていたわけではないのです。人間の側の努力や知恵で、完全になれ、とは言わないのです。神は「私の道を完全なものにした」とダビデは歌いました。旧約聖書を読むと分かるように、ダビデは罪を重ねた人です。私と同じです。欠けだらけです。しかし、ダビデは罪を赦された経験をしています。罪を赦された、という事実を胸に置く限り、すでに神が「完全なものにした」のだと言えます。私の道、私の人生を、神は赦しと愛により、すでに満たしてくださっているのです。
 
そのような信仰の中へと進みなさい。イエスのほうはというと、「完全な者となりなさい」と促していました。まだ十字架のイエスとの出会いを果たしていない人は、その十字架の許へと進み出なさい、と誘います。あなたの罪を、そのまま抱えて、主イエスの前に出なさい、と。罪はある。そのままでよい。あなたを受け容れて、なおかつあなたを変えることが、この神にはできる。神には不可能なことはない。この神は完全なお方なのです。あなたの心の空洞に来てくださり、あなたに欠けた部分、もやもやと分からなかったあなたの足りないところを、ただひとり埋めることができるお方です。
 
この神と出会い、神の命を受けたかどうか、問題はそこだけです。これを経験したとき、あなたは初めて、完全とされることができるのです。また、完全にされた、と信じることができるのです。

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