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見張り書き記し待ち望め

ハバクク2:1-4 
 
「見張りをしよう」と言って見張り場に立つことは、主から命じられたわけではありませんでした。預言者自身の意志に拘わらず振り回された経験が、聖書にはしばしば記されていますが、それとは対照的に、自ら見張りの砦の上に立ったように書かれています。ハバククは、ずっと主に叫び続けていました。「耳を傾けてください」(1:2)と。
 
正義が虐げられていることを主に訴えても、イスラエルは変わらないのでした。「なぜ黙っておられるのですか」(1:13)と神に問うのですが、神は沈黙します。でも、ハバククは諦めていたのではないでしょう。見張り場について、主の言葉を待っています。「主が私に何を語り/私の訴えに何と答えられるかを見よう」と自分に言い聞かせるかのようです。
 
直ちに、ではないかもしれませんが、主はこれに応答します。「この幻を書き記せ」というところから始まって、それが「終わりの時について告げるもので」あることを伝えます。訳語が聖書によりいろいろ異なるので、訳出が難しいのでしょうが、ここでは「一目で分かるように」板の上にはっきりと記すよう促されています。
 
「それを読む者が走るために」との註が、ここにも入れられています。他の訳では「走りながらでも読めるように」というのもありました。それぞれだいぶ意味合いが違うように見えます。主の言葉が人々に明示され、実現を待つことが求められているのは確かだと思うのですが。ともかく終末の出来事が知らされます。但し、時期は定めません。
 
終末の実現は「たとえ、遅くなっても待ち望め」と言いますが、「必ず来る」と付け加えます。いまの私たちに投げかけられている預言も、そういうものでしょう。「高慢な者」は「正しくない」のであり、主の言葉を受けそれを信じるべきなのです。「しかし、正しき人はその信仰によって生きる」のです。否、信仰に生きることこそ正しいのでしょう。

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