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ビューティフル・ネーム (出エジプト20:7, 申命記5:11)

◆不思議な第三戒

十戒を、ひとつずつ聞こうとしています。3回目になりました。それで、三戒目となります。
 
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。(出エジプト20:7, 申命記5:11)
 
出エジプト記と申命記とで、特に差はありません。が、この第三戒、少々疑問を覚えるのです。十戒のほかのものは、それなりに理解できるのです。神でないものを拝むな。安息日は、人間休みをとるべきだ、という意味にとることができます。ほかは、他の宗教でも言っているようなことでもあるし、さらに言えば道徳的な規定だとも言えます。
 
しかし、名を唱えるな、というのはどういうことでしょうか。神の名を唱えて悪かろうはずがない、と思いませんか。教会ではお祈りの最後に、「イエスの御名によって祈ります」とも言うし、「神」とか「イエス」とかいう名を呼ばないとなると、何に向かって祈っているのか、分からなくなりはしないでしょうか。
 
あなたの神、主の名を「みだりに」唱えてはならない。そう、「みだりに」という言葉が付いています。問題はここにあるとしか考えられません。でも、私たちは生活の中で、「みだりに」という言葉を、そうそう使うものではありません。意味の分からない人がいるかもしれません。
 
私にとって印象的だったのは、かつて「軽犯罪法」の条文をも見たときでした。家に何故かあった『六法全書』に、ちょっと面白い箇所を見出したときのことです。「軽犯罪法」は、「左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する」というふうに始まって、34の例が挙げられています。その中の四つの文に、「みだりに」が使われているのです。
 
七 みだりに船又はいかだを水路に放置し、その他水路の交通を妨げるような行為をした者
二十 公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者
二十七 公共の利益に反してみだりにごみ、鳥獣の死体その他の汚物又は廃物を棄てた者
三十三 みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし、若しくは他人の看板、禁札その他の標示物を取り除き、又はこれらの工作物若しくは標示物を汚した者
 
「みだりに」は、言葉の意味としては、「軽率に」「無思慮に」「自分勝手に」「でたらめに」「むやみやたらに」というような説明がなされています。あるいは「これといった理由もなくやたらに」と詳しく書かれたものもありました。すると、上の条項も、何が深い考えがあって、よく考えて行ったのであれば、軽犯罪法に触れることはない、というわけでしょうか。
 
なるほど、神の名を、強い信仰心から唱えるのは、問題がないわけだ。それは分かりました。では、その「神の名」というのは、どういうことでしょうか。「神さま」ということ、それとも「イエスさま」ということでしょうか。それを唱えるというのは、実際どうすることなのでしょうか。
 
なお、「みだりに唱えてはならない」というのは、「神の名を用いて軽々しく誓いを立ててはならない」という意味だ、と考えることもできますが、今回、そこまで手を広げると収拾がつかなくなるため、それとは違う道を辿ることに致します。
 

◆大切な名

2019年4月に出版された『なまえのないねこ』という絵本があります。竹下文子(作)と町田尚子(絵)の作品です。最近もEテレの「てれび絵本」で紹介されていました。「ぼくは ねこ。なまえのない ねこ。だれにも なまえを つけてもらったことが ない。」というところから始まります。町にいる猫たちは、みんな名前をもっています。ある日、自分で好きな名前をつければいい、と言われて、名前を探すことにします。
 
  名前 それは燃えるいのち
  ひとつの地球にひとりずつひとつ
 
  Every child has a beautiful name
  A beautiful name, a beautiful name
 
1979年発売の「ビューティフル・ネーム」は、ゴダイゴのヒット曲。ミリオン・セラーとなり、売り上げの一部がユニセフに寄付されました。
 
子どもたちは誰もが、美しい名前をもっている。ただそれを口にするだけで、涙が出て来そうになります。名前があるということ、名前で呼ばれるということは、その子を、かけがえのない一人として認める、ということにもなるように思います。
 
映画に動員されるエキストラは、名前のない登場人物です。群衆の一人であり、誰でもよい存在です。通行人Aも、そういうものかもしれません。都合が悪ければ、いくらでも取り替えることができます。いなかったことにすることもできるでしょう。「なまえのないねこ」も、そのままでは、いてもいなくても関係がない、存在価値のないものになってしまうところだったのかもしれません。
 
私はささやかながら、地域猫の活動に協力しています。近所に迷惑をかけないように気を払いつつ、ボランティアの皆さんが、毎日毎日ごはんを与え、住まいを清掃し、冬はカイロを取り替えます。猫の一人ひとりを観察報告しています。病気になれば獣医に連れて行きます。もちろん、去勢手術をして、不幸な猫を増やさないという前提です。こうした活動には費用が必要です。そのための協力です。
 
猫たちには、一人ひとりに、名前がついています。猫たちも分かっています。名前を呼べば、自分のことだと分かるのです。聞いたことのある声に反応する、というのも事実ですが、集団がいても、その猫の名を呼べば、その猫が振り向きます。
 
関心のない人にとっては、どの猫もただの「野良猫」のようにしか見えないかもしれません。しかし、名前があるとなると、それぞれが個性をもった存在だという目でしか見ることができません。それぞれに、「人格」ならぬ「ニャン格」があることが分かります。
 

◆名を呼ぶ

セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。その頃、人々は主の名を呼び始めた。(創世記4:26)
 
聖書で、人が主の名を呼ぶのは、これが最初です。その後、たとえばアブラハムが、まだアブラムという名だったとき、「それからベテルの東の山地へと移り、そこに天幕を張った。西にベテル、東にアイがあった。彼はそこに主のための祭壇を築き、主の名を呼んだ」(創世記12:8)というのが、二度目に主の名を呼んだ事例です。
 
「主」というのは、一般的な「神」という名称に対して、固有名を意味するものと考えられています。ただひとりのその神に向き合っている様子が思い浮かべられます。その主の「名を呼ぶ」ことは、旧約聖書にも新約聖書にも、広く記されています。
 
それは、ただ声に出すだけではないものと思われます。何か、象徴的な意味も含まれているのでしょう。子どもが親を呼ぶのは、助けを求めるときでしょうか。スタジアムで選手の名を呼ぶのは、応援している気持ちからでしょうか。ライブ会場で舞台に向けて名を呼ぶのは、そのアーチストが大好きだからなのでしょう。誰かに恋をして、その相手の名を繰り返し口にすることもあろうかと思います。
 
恋しい想いからその名を呼ぶときには、その気持ちが届かない故に、もどかしい気持ちに満たされているかもしれません。そのとき、相手の名は、この世でいちばん麗しい名前のように感じているはずです。ノートに何度もその名を書き、書いては消す、というような経験が、どなたにもあったのではないでしょうか。
 
「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの?」というセリフは、如何でしょうか。ジュリエットが、キャピュレット家とモンタギュー家との間で、ひたすら恋しいロミオの名を呼ぶ場面です。これを、当のロミオは密かに聞いておりました。悲劇『ロミオとジュリエット』の名場面です。
 
預言者エリヤが、バアルなどの預言者たちとカルメル山で対決した場面も思い起こします。バアルの預言者たちは、朝から昼まで、「バアルよ、私たちに答えてください」と言ってバアルの名を呼び続けたのでしたが、何の反応もありませんでした。
 
仏教に「称名」という言葉があります。真宗系がよく知られていますが、阿弥陀仏などの名を称えることで救われる、とするものでした。キリスト教には、そういうことは基本的にありません――と、言いたいところですが、実は言えません。私が最初に足を踏み入れた教会が、まさにそれだったからです。
 
ペルシア王キュロス(かつてはクロス)に向かって、捕囚の民の解放をさせるための主の言葉がイザヤ45:4にあります。
 
わがしもべヤコブのために、/わたしの選んだイスラエルのために、/わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、/わたしはあなたに名を与えた。
 
これは口語訳です。この「あなたに名を与えた」の「名」を、「神の御名」だと言って、神の名をひたすら大声で唱えさせるのが、その教団の特徴でした。が、その後新共同訳になり、そこは「称号を与えた」と訳されました。そうです。この「名」は、「名誉」のような意味の言葉だったのであり、あの教団が教えてきたような「神の名」のことではなかったのです。しかし、カリスマ的な教祖が今まで教えてきた以上、それを否定することができません。そのため、新共同訳は使えず、ずっと口語訳をその教団は使っています。もちろん、聖書協会共同訳も使えません。「私が呼んだ名を/あなたに名乗らせようとした」のように今度は訳していたのです。そのため、いまなおそこで使える聖書は、口語訳と、せいぜい「われ名をなんぢに賜ひたり」としている文語訳だけです。
 

◆名の権威

ところで、日本語でも少しばかり考えてみたいのですが、いまの例のように、日本語で「名」という言葉は、しばしば「名誉」の意味で使われるように見えます。慣用句に様々な形で使われるのが、そのようであるからです。
 
「名をあげる」「名を汚す」「名に恥じない」「名が売れる」「名を得る」「名を惜しむ」「名が通る」「名が泣く」「名を重んじる」など、「名誉」そのものではないにして、何かしら誉れのあるものを指しているように考えられる言葉が多く見出されます。そうすると例えば、「名も無い」というのは、個人名がない、という意味でなく、誉れあるものがない、ということですから、やはり、私たちの考えがちな「名前」ということではないと分かります。
 
こうした「名」には、権威が伴っているものと想われます。聖書だと、エステル記で、王の指輪が印となり、王の言葉として地方に馳せ伝わる様子が描かれていたことを思い起こします。天皇の場合も、「御名御璽」と言って、押印と共にその名があることに、意義がありました。
 
今日は「建国記念の日」ですが、キリスト教会のうちいくらかは、これに対して猛烈に反対の声を挙げ、対抗集会を開いています。天皇を中心とした国に再びならないように、という懸念からでもありますが、どうやら宗教と国家との結びつきについて抵抗しているようにも窺えます。
 
政治的には、何がどうだという意見を言うつもりはありません。いっそのこと、クリスマスというものも、このくらい権威ある本来のあり方であってほしい、と願う者ですが、当のキリスト教会自身が、クリスマスをパーティの機会にしているような向きもあるようで、私たちもまた、いろいろ検討するところがあるようです。
 

◆名は本質

名前には権威が伴う、という点に気づかせて戴きましたが、その名前ということで、いつも連想することがあります。まず『ゲド戦記』です。通称とは別の「真の名前」というものがある、という設定がありました。相手のそれを知ることによって、相手を操ることができる、と言われています。このようなタイプの考え方は、ほかにも物語がいろいろあるようです。
 
もうひとつ、「大工と鬼六」も印象的です。大水でも流されぬ橋をかけることになった大工が、現れた鬼に、橋をかけてやるから目玉を寄越せと言われ、約束してしまいます。まさかそんな橋などできまい、と高を括ったのですが、鬼は立派な橋をこしらえてしまいます。鬼は大工に目玉を迫りますが、自分の名を当てたら免除すると言います。大工は困りますが、幸運な出来事で鬼の名を知り、難を免れることができました。
 
「大工と鬼六」は、キリスト者で福音館を支えた児童文学者の松居直(ただし)さんが、民話から絵本に仕立て、特によく知られるようになりました。
 
名というものが、いかにそのものの本質を表しているか、を教えてくれます。あるいはまた、一種の「言霊」のような日本の思想を隠し持っているのかもしれませんが、西欧にもそうした考えがあるようですから、人間が広く同じような発想をしていたのではないかと思われます。
 
私たち自身は、どういう名前をもっているでしょうか。それは、自分のアイデンティティの問題にも関わるでしょう。「自分はいったい何者なのか」という問いについて、若い時分に、きっと誰もが考えるはずです。
 
それがいつしかなくなってゆくのが、年を取るということなのかもしれません。それは、社会や人間関係において、自分になんらかの「名」が付くようになるからです。「夫」「妻」「父」「母」などもそうですし、「係長」「課長」などもそうでしょう。「運転手」でも「受付」でも、ひとつの「名」です。「先生」など、いちばんありふれた「名」であるかもしれません。学校にも、政治の場にも、法律所にも病院にも、そしてプロテスタント教会にもいますね。
 
「いや、そんなのはオレの本質じゃねぇ。オレはオレだ」というトートロジーすら吠えたくもなりますが、案外それが、一番的を射たことを言っていることになるのかもしれません。
 

◆神の名

神には、名があるのでしょうか。「神」と呼んだら、異教の神々のことも指すことができますから、それこそ「先生」と呼ぶような恰好になりかねません。日本には、なんとかのミコト、などというそれぞれの名前があるようですし、ギリシア神話は、とても人間臭い神々の関係が見られます。
 
聖書の神の名は、さて何でしょうか。これが実はよく分かりません。出エジプト3章で、モーセが初めて神に呼ばれ、神と対話をする場面を見てみます。
 
5:神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。」
6:さらに言われた。「私はあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。
 
さらに、訳者泣かせの不思議なフレーズが現れます。
 
13:モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」
14:神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」
 
この「私はいる」は、英語で言うなら「I am」のようなものです。保護を必要とせず、ただ端的に「ある」というお方。以前は「在りて在る者」などという説明が加えられていましたし、口調がよいので、そう覚えておいでの方もいるだろうと思います。

15:重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました。』/これこそ、とこしえに私の名/これこそ、代々に私の呼び名。
 
こうして見ると、「先祖の神」という辺りが、イスラエルに与えられた神の名であるようにも見えます。が、どうしても現代人は、固有名を知りたいと考えます。その結果、聖書のたくさんの箇所で示されているのが、「ヤハウェ」(ヤーウェ)というような言葉であるように理解されてきました。
 
母音のないヘブライ語の文献が、これを読むための母音記号として「エホバ」のように読める記号を振ったことから、文語訳の時代までは、神の名を「エホバ」と呼んでいました。「エホバの証人」は、それをいまも使っていることになります。しかし、その誤解の母音記号は、今回の戒め「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」があるために、畏れ多くて本当の名を呼ばないために付けられた、仮の母音だった、というのが現代の共通理解となっています。「主」という言葉の母音を、神の名の4文字に振り当てると、「エホバ」と読めるわけです。
 
それでは、イエスは神の名と呼んでよいのでしょうか。新約聖書は、イエスを神の子とします。この辺りをねちねちと考えると、膨大な神学書のようになってしまいますから、いまは軽く触れることにしましょう。
 
カトリック教会は、以前から「イエズス」とその名を呼んでいました。歴史で習う「イエズス会」はそれとつながっています。ギリシア語だと「イエースース」のような感じになるのですが、これまたギリシア語表記にしたという、翻訳的な効果によるわけで、いわば「長崎」を「ナガサーキ」と英語で呼ぶようなものに過ぎません。そのカトリック教会も、共同訳を発行するとき、よくぞプロテスタントの「イエス」に同意したものだと驚きます。これは勇断でした。
 
「イエス」は、ギリシア語の活用語尾の辺りを取り去ったものですが、日本語だとどうしても「YES」と同じに響きます。英語では、英語式のとんでもない発音で「ジーザス」と読むようになりました。他方、ヘブライ語からすると、「ヨシュア」のようなもの(イェホシュア)になるとも言われています。
 
いったい、神の名を呼ぶというのは、こんなにもバラバラでよいものなのでしょうか。イスラム教はその点、アラビア語しか聖典と認めませんから、発音はひとつに限定されます。キリスト教の場合、翻訳されて聖書は広まっていますから、発音は各国語様々です。それでも、それぞれが出会い、その声を聞いた神は、ただおひとりです。それが神の権威をもっているのであり、音も表記も様々でありながら、ひとりの神の御名であるということになるのでしょう。
 

◆大切にする

この神の御名によって語ること、これこそ「説教」である、という捉え方をする人々がいます。ドイツの神学者や牧師の中によくいて、そこから学んだ加藤常昭氏が、日本においてもこの捉え方を強調しました。御名によって語る説教は、神の言葉であり、それが神の出来事を生み出します。神の言葉は、空しく空中に消えてゆくものではなく、言葉が即存在となる、そういう信仰を有していますから、説教は神の言葉の出来事だ、というわけです。
 
いまイエスの名について見ていましたが、そもそもイエスその方が、「神の名」というとき、それは何をいうのでしょうか。イエスから見て「父の神の名」のことに違いありません。それは旧約聖書で人々に現れ、人々に力を示してきた、あの神の名です。
 
ヨハネによる福音書が堂々巡りのように記していたイエスの言葉は、子なるイエスと父なる神との関係が特別であること、そしてこの父と子とは一つであることを語る祈りでした。ヨハネ伝の17章から引用します。
 
8:父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
9:あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
 
ですから、私たち人間から見れば、この神の名とイエスの名とは、一つに重なってゆくことになるはずです。名をもつということは、一般化されることから免れることです。特別なのです。アイデンティティがあるのです。去年の末に虹の橋を渡った私の友だち・フウタは、決して「猫」なのではありません。フウタはフウタなのです。
 
置き換えることのできない、神の名がここにあります。神の名は、ほかのものではありえない名です。その唯一無二の名には、力があります。「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)とイエスが告げたことからしても、私たちが祈りで「イエスの名によって」祈る意味が分かります。名によって求めること、名によって祈ること、そこに神ご自身が働いてくださいます。
 
そのため、私たちは、この神の名が粗末に扱われることをよしとしません。キリスト教が世間で悪く言われるのは仕方がないことですが、神の名を悪く言われることには、嫌な思いをするどころか、耐えられない苦しみを覚えて然るべきだと思います。
 
加藤常昭氏が、日々の黙想のためにつくった本があります。去年一昨年と、スポルジョンのものを日々開いていましたが、今年は加藤常昭氏の『御言葉の放つ光に生かされ 一日一章』を用いています。その1月24日のところに、こういうエピソードが書かれています。
 
かつて東ドイツで牧師家族と食事をしていたら、11歳の男の子が泣き出した。訳を訊くと、学校で国語の時間に、詩の暗誦の宿題が言えなかったのだった。覚えていなかったのではなくて、わざと一部を飛ばしたのだそうだ。そこには、神を冒涜するような内容があったという。無神論教育のために、こうした詩の教育を国が強制していたのである。学校の宿題であろうと、神を汚すことはどうしてもできない。それが少年の信仰だったのだ。
 
その加藤常昭氏が訳した、ボーレンの『説教学Ⅰ』という本があります。そこには、コールブリュゲという人の言葉が引用してありました。「神のみ名とは、神がキリストにおいてわれわれに啓示してくださり、われわれの救いのためにわけ与えてくださった、そのいっさいの徳の総体なのです。」
 
神の名は、特別な、唯一の名です。自分に限りない愛を注いでくださったその神の名ですが、ただ呼べばよいというものではないのでしょう。救いのために与えられた名です。救いを求めて呼ぶのです。このとき、私はただ見上げるよりほかありません。美しいその名を口にするとき、悪口ばかりが漏れたその唇が清められます。そして、自分本位だったこの心が、見上げたイエスの十字架の前に献げられます。私自身を献げつつ、神の名を呼ぶのです。

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