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見よ、聞け、一雫

来るべきとは、あなたなのか? あなたでよかったのか?
 
洗礼者ヨハネの迷いというものに光を当てる。聖書は、どこの立場から、どこに視線を送るかによって、未知の領域があることにすぐに気づかせてもらえる。
 
「悔い改めよ」と呼びかける自分の使命を確信し、生活のすべてをそのために捧げていたヨハネ。何かに突き動かされていたのか、神の声を直接聞いていたのか、その体験のすべてを聖書は語らない。ただとにかく、ヨハネはそこにいた。荒野にいて、自分は前座を務めるのだという自覚だけをもっていた。少なくとも福音書は、こぞってこの人物を刻む。
 
どんなに偉大な役目があったことだろう。だが、聖書の記述は、いまひとつ曖昧であるように見える。何故ヨハネは必要だったのか。私はこれを、2023年の初めに、その一年のひとつの信仰の象徴のように、掲げることにしているから、いまはそのことには触れない。
 
ただ、ヨハネが力強い言葉を人々にぶつけていたことは確かだ。マタイによる福音書では特に、宗教のエリートたちに、ここぞとばかりに鋭い批判をもぶつけている。やがてヨハネは、イエスのことを知る。イエスに洗礼も授けた。そのときに、イエスには何かがあることを間違いなく知ったはずだった。
 
そのヨハネが、どうしてここへきて、弱気になったのか。来るべき方というのは、あなたのことなのか? そんなことを漏らす。それというのも、ヨハネは牢獄につながれていたのだ。ヘロデ王を批判したことで、収監される。結局偶発的な理由でヨハネは命を奪われることになるが、そうでなくても、そこからもう二度と出られまいということを、ヨハネは感じていたことだろう。それが、イエスについて、先だって信じていたようなこと、つまり自分が備えた道をこれから通る主人公であるメシアであるということについて、確信がもてなくなってしまった。少なくとも、そのような心を伝える質問を、ヨハネは自分の弟子たちを通じて、イエスに届けたという場面が、マタイの11章にある。
 
ヨハネの弟子たちに、イエスは質問の答えを返す。見聞きしていることをヨハネに伝えればよい。ただそれだけだ。弟子たちは戻っていく。ヨハネに伝えることはできただろうか。
 
それに続きイエスは、有名な「笛吹けど踊らず」の言葉などを掲げて、より長い話を群衆に聞かせる。その中で、君たちは荒れ野で何を見たのか、と問う。風そよぐ葦を見に行っただけなのか。普通の説教ならば、このイエスの言葉しか目に入らないかのように、イエスの言った意味について熱く語るであろう。中には、聖書の説明を、解説本でも見て話して、最後に決まり文句として「私たちもこのように……」と話せば説教だと勘違いしている人もいるが、別の説教者は確かに命のある言葉を伝える。あくまでもヨハネの心に寄り添うのだ。
 
「風にそよぐ葦」は、解釈に幅のあるところなのだという。しかし説教では、ひとつの解釈を、説教者の信じるところで語ってよい。ヨハネの心が揺れていたこと、迷っていたことを、イエスは言ったのではないか。私は、イエスの心の中で、このヨハネの揺れる思いのことを、締め付けられるような胸の中で抱きしめていたのではないか、とすら思う。私たち人間の言葉で言えば、「切なかった」のではないか、と。
 
しかも、揺れるのは風によってである。風は言うまでもなく、神の霊について暗示する場合もあれば、ズバリ霊と訳すべき場合もあるという言葉である。ユダヤ人は、ただの風の中にすら、霊を見ていたのだ、とも言う。ならば、ヨハネは正に、霊において揺れていたことになる。何がヨハネをそこまで追い込んだのであろう。もちろん為政者の傲慢さとこの世の政治の駆け引きの故でもあるだろう。だが、なかなかずばりとメシアであることを明らかにしなかったイエス自身の責任も感じていたのではないか。ヨハネに対しては、実に気の毒なことになることを踏まえて、心苦しいというような感情を懐いていたのではないか。
 
街中の風景を話すとき、妻が、ケーキ屋の横だとか、ブティックの向かいだとか教えてくれても、私は全く思い出せないである。自分の関心の深い店でなければ、見ていないのだ。見えていたかもしれないが、意識の中にはそれが入っていない。授業を語るほうは語っていても、聞く側がすべて聞いているわけではないのもそういうことであろう。
 
私たちは、出来事の中に何を見るだろう。心に起こる考える考えの中から、何を聞いているだろう。それは神が見せていることであり、神が呼びかけていることである。だが悲しい哉、私たちはそのごく微量なものしか、気づいていない。イエスの言葉の中から、何かに気づかせて戴いたら、それだけでもう奇蹟のようなものなのかもしれない。それと同時に、自分には聖書の何が、イエスのどれほどのことが、出会えた確かなものとして分かっているのか、実に頼りない様であるということを痛感する。また、そのような事態であるということを、もっと謙虚に、額を地面にこすりつけるほどにへりくだっていよ、と突きつけられていると弁えるしかないことを思い知らされる。
 
だが、とイエスは呼びかける。目を上げて見たまえ。耳を澄まして聞きたまえ。見えないか。神の出来事が、ここに起こっていることが。聞こえないか。神の言葉が、ここに語られていることが。絶望と罪の中に死んでいた者が、神の言葉により生き返り、喜びの中を歩んでいるのが、分からないか。イエスの救いが、こうしておまえによって、届けられていることに気づかないか。
 
イエスは、それから慰めを与える。救いの言葉をもたらす。――おまえに、今日見えたものが、ひとつあるのではないか。あれば、それで十分だ。そのひとつが、貴重な、豊かな、今日という日の成果である。ひとつが確実に、神の国に場所を占めるのだ。もしそれが重なれば、神の国はさらに豊かな歌に包まれるであろう。芳しい香りが漂うことであろう。
 
説教者は、一雫ひとしずくが、やがて大きなものとなっていくであろう、と慰めた。現に2000年にわたり、神の恵みは雫を連ね、いまの私たちに注がれている。これはなんともうれしいニュースである。これも確かに福音である。それと同時に、私はもう少し、神秘的な受け止め方をする者である。その一雫が、すべてでもありうるし、すべてが、一雫にでもなりうるのではないか、と。一雫という姿は、科学的測量に基づくように、分有しているだけの存在ではなくて、その小さなことのように見えるそのものが、神そのものであるということも、あるのではないか、と。
 
そんなことがあるはずがない、とお思いだろうか。いや、神にできないことは何もないのだ。

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