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私たちも預言者のように

エレミヤ1:4-12 
 
ヨシヤ王の時代、ヒルキヤの子エレミヤに「主の言葉」が臨みました。主は彼を「胎内に形づくる前から知っていた」と言います。見落としがちですが、主がつくったのです。知っていただけではなかったのです。預言者としての使命がすでに与えられた形で、特別な存在としてつくられたのです。イスラエルのためだけではありませんでした。
 
「諸国民の預言者」だと言い渡されています。狭くは、ユダの運命と共にするのでしょうが、その口から出る言葉は、全世界に及ぶのです。こうした声が、突然与えられたらしく、エレミヤは戸惑います。当然です。「私はまだ若く/どう語ればよいのか分かりません」と主に向かって答えるしかありません。若かったのです。
 
その若さを、逃れる理由として弁解に用いたのでしたが、主はそれをものともしません。「相手が誰であろうと/赴いて、命じることをすべて語れ」と迫ります。事実エレミヤは、王やその周囲にいる預言者たちから命を狙われもします。身の危険を覚える活動を、生涯続けることとなります。エレミヤはこのとき、神の手を見たのでしょうか。
 
「御手を伸ばし」と、確かに「手」と本人が言っています。「手」だと感じただけなのでしょうか。エレミヤの口に、それが触れます。この唇に主の言葉が与えられるという根拠となります。これにより、「諸国民、諸王国の上に任命する」のです。思わせぶりな「引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植える」のは、主の業です。
 
エレミヤはその予告をし、警告を与えます。エレミヤが口にした言葉は、主のものとしてこの世界に実現するものです。改めて臨んだ「主の言葉」は、すでに預言者として生きることを受け容れたことを表します。「何か見えるか」の問いは言葉遊びを含む展開をもたらしましたが、預言者は主の言葉が「実現する」ことを見張ります。私たちも、きっと。

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