ヨルダン川を止めるキリスト
ヨシュア3:14-17
もちろんヨシュアは、主から指示を受けています。いよいよヨルダン川を渡るのです。遙かエジプトを出て40年、神が約束したカナンの地に、足を踏み入れようとしています。モーセはついにその夢を果たせませんでした。主に、それを許されなかったのです。モーセの後継者として民をリードするヨシュアが、いまその地に立とうとしています。
緊張が増します。目の前にはヨルダン川が流れています。地名は知っていたとしても、具体的にそこがどのようであるか、まだよく分かっていません。どういう川の形状なのかもよく分かりません。川幅はそう大きくないようです。深さは所によりまちまちなのでしょうが、さして深くないところもあるようです。でも定かではありません。
それにしても、民の命たる契約の箱を担いだ祭司たちが、まず先頭としてヨルダン川に足を入れるというのは、どういうことなのでしょうか。危険ではありませんか。刈り入れ期の時季、水が岸まで満ちていたとわざわざ記しているからには、乾いたものでは当然ないわけですが、刈り入れという表現は、後の時代からの記述でないかとも思われます。
小麦だとすると、初夏、つまり乾季の始まりです。ここまでの雨季のために増水していたということなのでしょうか。危険な契約の箱の運命は、信仰によるものと考えざるをえません。さもなくば無謀です。祭司たちの足が水に浸かるや否や、水が川の上流のほうで留まり、堰となったのだそうです。すると川が乾き、人々が渡れるようになりました。
そう言いますが、当然時間差があるはずです。それは干上がったとは思えません。ぬかるみになっていたのではないでしょうか。そこを、何十万という民が、すっかり渡り終えたのです。渡り終えるまで、祭司たちは契約の箱を担いだまま、川の中央に立ち続けていたようです。それは危険な賭ではありましたが、信仰でもありました。
神の十戒を刻んだモーセの石の板が納められた契約の箱。これを精神的な核心として、イスラエルの民はここまで歩んできました。最初の世代は皆死にましたが、生まれながらにして旅していた民がすべて渡り終えるまで、リスクを伴うままに契約の箱と祭司が立ち続けます。その姿に私は、どうしても、イエス・キリストの姿が重なって見てしまいます。