信仰と希望
開かれたのは、アブラハムの試練の箇所。イサクを献げよと神が命じたことに、いわば素直に従ったアブラハムの信仰が描かれる。確かに、アブラハムの生涯でも際立つ出来事であろう。「信仰の父」と呼ばれる所以である。
神は、いわばアブラハムを試したのだ。テストしたのである。しかし、説教者はこのとき、教師はテストを実施するが逆に教師自身が試されることもそこには含まれている、ということに触れた。いやというほど私は知っていることである。塾では、生徒のテストの成績が教える者の成績であるのは常識である。それは給料や勤務の存続自体に関わるものである。だが、それとアブラハムのこの出来事とは、正直、結びついたと思う経験がなかった。
それは、説教者もそこのところを追及したとはいえない展開だったため、どのような意図で触れたのか、覚知できなかったけれども、私の中ではしばらく悶々と響く指摘であった。そのまま受け取るならば、神が試されたということなのか。アブラハムが神のテストに合格するかどうか、それは神の側の対応なり教育なり、ともかく神がアブラハムにどのようなことをしたのか、ということが量られるということになるのだろうか。
だとすれば、神が一方的に人間を支配して、圧倒的な権力を向けて言うことをきかせようとしているのではない、という図式が頭に浮かびます。教師が生徒を暴力的に支配しようとしたのが、一時あったかつての教育であるとすれば、教師がテストされるというあり方は、愛の教育であるのかもしれません。
愛の教育とは、教師が生徒にサービスすることです。サービスというのは「礼拝」と訳すことになった語でもあります。もちろん神が人間を礼拝するのではありません。むしろ、世話であったり、接客であったりするかのように、その生徒のためということを第一として、向き合っていくことだと言えるでしょう。
それにしても、神が約束した形で与えられた息子イサクを、いけにえとして献げよというのは、なんとも理不尽な神の要求だというように見えます。説教者は、どうして神がそう命じたのか、「分からない」と言った。これは実に誠実な態度であった。なんとか理屈をつけて、こういう理由だから神は言ったのだ、と断言するのが好きな人も世の中にはいるものである。だが、そのようなことを繰り返すうちに、自分が神のことをすべて説明しているという歪みに全く気づかなくなっていく。それは、自分を神とすることにほかならない。
だから、神の心を説明しよう、という姿勢をとるものではない。人間はどうせ、人間の視座から、人間の地平しか見ることができないのだ。けれども、説教者は、神からの言葉を受けている。神から見える景色を伝える使命を有している。神の言葉の意味を、通訳者のように、会衆に伝えなければならないのである。
この矛盾した業を行う説教者というのは、なんと難しい立場にあることだろう。そして、なんと勇気のある者なのだろう。
ところでこの説教では、provision という語に注目することがなされた。備えや供給することを意味する。規定や条件を指すこともある。しかし、ハイデガーばりに、これを pro と vision とに分けることで考察の深まりを求めるならば、これは、予め見ること・先を見ることを示す構成になっていることが分かる。神学的には、神のprovisionと言うときには「摂理」と訳す。神が規定すること、先を見て知るということになると、これはまるでアブラハムが本当にイサクを献げる服従心をもっていることが、分かっていたかのようにも思える。これだと、確かに教師が生徒を信頼して任せるというような景色と、どこか通じるようだとは言えないだろうか。神がテストされる風景と、何かつながるものがあるかもしれない。
それから、provision という語には備えを意味することがあると挙げたが、ここでいう「主の山に備えあり」という有名な言葉にも、ここからつながるものを感じてもよいのではないかと思われる。すんでのところでアブラハムが取り返しのつかないことを止めた神は、そこに身代わりの雄羊を備えていた。説教者は、この雄羊を見つめるアブラハムの視線に、聞く者の視線を合わせた後、その先にイエス・キリストの十字架が見えるように、言葉でセッティングをした。
その備えは、いま私たちには見えていないことだろう。しかし、心の目には見えている。信仰の魂にはちゃんと映っている。それを、人間の側の言葉で言うと「希望」とも呼ぶことができる。漢字だと、「まれな望み」のようにも見えるが、実は「まれ」ではなくて「こいねがう」望みである。ただ、それは人間の立場から言えるものとしての「ねがい・のぞみ」に過ぎない。神の側からの「希望」は、神の「現実」である。神が備えているものなのであり、もう神はそれを見ているのである。
説教のために同時に掲げられたローマ書4:18には、アブラハムは「望みえないのに望みを抱いて信じ」た、とある。説教者はこれを、的確に意味が伝わる訳し方をした。「自分の希望に逆らって望んだ」ということだ、と言った。原文だと「希望とは別にそれに反して希望に信頼を置いた」のような意味を伝えているように私には思われる。「希望」はどちらも名詞であるから、ここに私の気持ちを重ねるならば、人間の側のもつ希望を第一としたのではなくて、神の与える希望を信頼して最優先した、というような気持ちで捉えてみたいと思う。
私の夢は潰えても、神がご存じの約束の成就は無になることはない。この視点から、聖書のあらゆる出来事を見る地平を想定してみるのもいい。神はもうそれを備えている。私たちはそれを信じて、今日も歩く。明日が許されれば、明日も歩く。神のビジョンに基づく備えが、きっとあるのだから。
因みに、アブラハムがこの創世記で、あまりにも淡々と事をなし、感情ひとつ出さずに行動しているように見える点について触れたい。私たちは、怒り、泣く。だが、アブラハムが派手に感情を出したら、私たちは引いてしまい、そこに心を置くことができなかったかもしれない。絵本は紙芝居と異なり、感情を移入して子どもたちに読み聞かせてはいけない、と言われている。淡々と読む中に、子どもたちは自分の中に起こる感情を意識することができるようになり、心が育まれるのである。アブラハムは冷酷にイサクに刃を向けたのではない。この物語にあなたはどういう感情をもつのか、どういう信仰の熱意を沸き立たせることができるのか、と問うているのではないか、と私は思う。