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私たちもエリヤでありうるか
マラキ3:19-24
「義の太陽」を待つ。マラキ書の段階では、それはまだ実現していませんでした。癒やす力をもつ翼の下で、イスラエルは喜び跳ねる。預言者の見た幻は、ここではかなりシンプルです。旧約聖書をこれで結ぶという意気込みは、書いた当人にはなかったはずです。それは、あくまでもこうした聖なる文書集を編集した人々の意図なのです。
パズルを嵌めこむように、神からの言葉であると受け止めた人々が、聖書の最後を飾るに相応しいものとして、この未来像を掲げたというわけです。他の預言者と同様、「その日」と呼ばれる時を待ちます。「かまどのように燃える日」とは、なんとも不気味です。「わら」となって燃やされる者たちは、燃え尽きて何も残るものがありません。
金銀の精錬とは訳が違います。しかし、主に嘉される人々がここにいます。マラキはそれを「あなたがた」と呼びます。「義の太陽」が昇ってきます。その光の下で、子牛のように踊るというのです。「悪しき者たちを踏みつけ」、灰にするとも言います。その後、最後の最後で、イスラエルの救われるべき人々の眼差しを、マラキは過去へ向けさせます。
ここがイスラエルらしいところです。つまり、この文化は、過去から目を背けないのです。過去を正面から見据えています。視線は、出エジプトに注がれ、モーセの律法を文化の礎とします。この律法は、出エジプトの出来事の中で与えられました。あの歴史は何だったのか、いつでも思い起こすようにしています。子どもへの教育は執拗でした。
こうした背景があって初めて、これから起こることの意味が分かるというものです。「預言者エリヤ」を遣わす、と告げます。象徴的な意味での「エリヤ」です。この地を滅ぼすためではなく、救われる民が必ずいます。「大いなる恐るべき主の日」の前に現れるエリヤ。もしかすると私たちもこの「エリヤ」であるべし、ということなのかもしません。