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吊り橋と縄

黙示録の連続説教も第7章に入った。「大地の四隅に四人の天使が立って」おり、風が吹き付けてこないように守っているシーンから始まる。そこへもう一人の天使が現れる。かの四人はは、世界を破壊するような役割があるらしいが、この天使は、もうしばらく待つようにと告げる。「神の僕たちの額に刻印を押してしまう」ことが必要なのだそうだ。
 
「刻印を押された人々の数」は144,000人。この数を以て、救われる者の数だとひらめいた教祖の言葉を、いわば聖書よりも大切に扱うグループがいるが、黙示録では、続いて「だれにも数えきれないほどの大群衆」がこの後に現れる。「白い衣を身に着け」ているが、いずれも「大きな苦難を通って来た者で、小羊の血で洗って白くしたのである。」そして彼らは、始終神に仕えることになる。もはや飢えも渇きも彼らにはない。小羊を牧者としつつ、「命の水の泉」へと導かれ、「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」のだ、と結ぶ。
 
この箇所は、恰も台風の目のようである、と説教者は言う。前章で血生臭い描写があったが、ここは穏やかである。だが、次章にはもっと非情な災いが世界を襲う。台風の吹き返しどころか、そこからが実に凄惨な、悪の断末魔の叫びへと続く有様が語られることになる。
 
日本ではあまり伝わらないし、報道もされないが、キリスト者が世界中でどのくらい迫害され、殺されもしているか、説教者は礼拝の最初に明らかにした。台風の目のように穏やかだと勘違いしている場合ではない。なんだかんだ言っても、いまの日本は、キリスト者にとつて居心地がよいのではないだろうか。もちろん個人的にはいろいろ戦いがあるという人がいてよいのだが、「戦後」は、それまでとはやはり違う。少子高齢化で教会が生き残るだろうか、などという悩みが、如何に呑気な話であるか、先人たちの生死を懸けた信仰の人生には、もっといまのうちに耳を傾けておくがよいと思っている。
 
ここで、バーバラ・ブラウン・テイラーという説教者の話題がもたらされた。「神が分からなくなる」という体験から、「信じる」ということに気づかされる過程が語られていたのだという。テイラーの説教集は、ひとつ読んだことがある。『天の国の種』というもので、それはマタイによる福音書を縦断したものである。1990年のラジオ番組で語られたものであるらしい。
 
とにかく、表現がイメージ豊かである。具体的で、その情景が目に浮かぶように話す。抽象的な内容も、その場面に聴く者を置くことで、言葉にならないような体験をさせてくれる、とでも言えばよいだろうか。
 
説教でも、そのひとつの場面をありありと思い浮かべさせてくれた。それは、「見晴らしのよい谷にかかる吊り橋」である。いかにも見晴らしはよい。だが、足の下は谷底である。もちろんつかまる縄もさほど信頼がおけそうなものでもない。そして歩く度に、大きく揺れる。これをたどたどしく一歩ずつ歩いて渡るとすれば、縄を掴むしかない。橋が壊れないことを信じるしかない。眺めよい風景を信じるわけではないのだ。
 
私たちは、信仰してよかったとか、恵まれたとか、そんなことを「信じたい」気がするかもしれない。しかし、絶景は自分をいま助けてはくれない。谷底への危機に震えながら、この橋を――道を、信じるべきなのだ。キリスト教は、聖書の中でしきりに「道」と称されている。いまでいう「宗教」という意味の言葉は、聖書では「道」である。この橋という道を信じるしかない。しかも、そこには1本の縄がある。縄を握りしめて歩くしかない。縄はキリストである。あるいは、言葉としての神である。
 
聖書の言葉を握りしめて、今週を歩く信仰を、そして勇気を、説教は届けなければならない。安穏とした立場から、世間を見下ろして評価するようなものは、説教ではない。まして、聖書を文献として切り刻み、自分の読み方が正しいことを披露するなどは、礼拝には場違いな講演である。さらに言えば、この吊り橋を渡る経験がないような者が説教を語るような場は、キリストの教会には存在しない。そんなことをするとすれば、それは「騙る」ことをしているのである。
 
しかし、聖書の抽象的な語り、あるいは時空が遠すぎてその言葉が私たちの感覚と異なるが故に私たちには感じ取りにくい聖書の表現が、その当時それを読み取ることができた人と、できるだけ近い感覚で知ることができるようにするものは、実際文学的な読解であるのかもしれない。文学は、普遍的なものを万人に届けるような真似はできない。科学的な成果であれば、一定のパラダイムの中ででしかないかもしれないが、学べば誰にでも同じように適用可能であると言えるだろう。だが文学は自由である。それぞれの人の心に働きかけて、それぞれ異なるものを与えていく。異なる者が、それぞれの人で生み出されていく。
 
もっと言おう。文学は、読んだその人を「変える」。文学は言葉でありながら、言葉以上のものを以て読者に臨み、読者を「変える」。このことに関して、加藤常昭先生は『文学としての説教』という本を著し、「聖書はすでに文学である」という観点から、聖書を語る説教なるものの使命を訴えている。この件はあまりにも大きなテーマとなるので、またいずれ機会を設けてお話しできるように、もう一度学んでみようと思う。
 
バーバラ・ブラウン・テイラーの、この描写の美しさと具体性はどこからくるのか。それは、先の『天の国の種』の「訳者あとがき」に明らかにされている。彼女は「はじめは小説家になることを目指していた」のだという。しかし売れないことから、説教学社クラドックとの出会いによって、説教者としての道が拓かれたのだという。クラドックというと、『説教 いかに備え、どう語るか』という名著を書いている。説教というものについて説くと共に、その生み出し方をも実に丁寧に熱く語っている。テイラーの文学的な才能を現実のものとするには、最高の師であったのではないだろうか。
 
しかし、彼女の説教は、感情的に話すものではない。聴く者を感情的に揺さぶるようなことをも求めてはいない。強いていれば、霊的に揺さぶるのである。先の「訳者あとがき」には、言葉が、「説教が終わってもなお聴き手の心の中に生き続け、新しい出来事を起こそうとする」のだ、と解説している。それは、彼女自身言っていることだが、「最もよい説教は、小論文ではなく出来事である」ということでもある。そして訳者はそのあとがきを、次のような祈りを以て結んでいる。
 
この本を手に取られた方が、ここにある説教によって想像力を刺激され、心を燃やされ、神の光のもとで、この世界を新しく発見する「出来事」が起こりますように。そのことによって、静かに、麗しく、この世界が変えられていきますように。
 
さて、説教ではいくつか強調する部分を印象づけるものであるが、ここで「生ける神の刻印」について立ち止まっていた。キリスト者というものはこの刻印が押されているものだとすれば、あなたがそこにいるだけで、神が生きておられることが他人に分かるのではないか、と説教者は投げかけた。キリストを証しするというのは、そういうことだろう。少々荷が重い気がするが、先人の証しを聞くと、たしかにそういうことはよくあるようだ。なにも「敬虔なクリスチャン」でなくてよいが、「この人には何かがある」と思わせるものがしばしばキリスト者に漂うというのは、ありうるだろうと思う。
 
「生ける神の刻印」には「の」という助詞が入る。ギリシア語ならば属格である。日本語の「の」を凡そ考えてよいかと思われる。これは時に厄介な解釈を呼ぶ。理解がずいぶん異なってくる解釈があるからだ。そのために聖書協会共同訳では、従来の捉え方を全く変えるような大胆な訳語の変更がなされた箇所がある。この「生ける神の刻印」の「の」は、もちろん議論の余地のない「の」であるだろうと思われる。だが、そこは捻くれた私である。他の可能性を無理矢理こじつけてみたらどうなるか、少し考えてみた。
 
まず、「生ける神がつけた刻印」と、神を主語にしてみた。ここでは天使が持って来たのだから、明らかにおかしい。では「生ける神がつくった刻印」ならどうか。これは考えても面白いかもしれない。ある意味でその通りであろう。
 
次に、「生ける神という刻印」と、同格扱いをしてみた。あるいは「生ける神のような刻印」という比喩の感覚で捉えてみた。どちらにしても、その「刻印」そのものが、神を示すことになる。すると、刻印を押された者は、神を押されたことになる。神をこの身に帯びることになる。聖霊なる神が私の内に来てくださる、というイメージも重なってくるかもしれない。これで捉えると、さらに聖書がダイナミックに感じられてくるような気がするのだが、もちろん万人にお勧めするものではない。私の気紛れな受け止め方でしかないのかもしれない。それでも私はこれを縄にしてみてもよい、と自分では考えている。つまり、これはひとつの「出来事」となったのだ。
 
また、この礼拝説教は、私たちのいまここでの礼拝が、天上の礼拝とつながっている、というイメージをももたらしてくれた。天上の礼拝は、ここから遠くにあるのではないのだ。いまここで、私たちの礼拝を取り囲んでいる。たぶん信仰者の列伝の後で、雲のように取り囲んでいる、というイメージを励起するためではなかったか、と思う。
 
安穏としているのではないか、と私は口が滑ったが、もちろん私たちは、それぞれに苦悩を抱えているに違いない。たとえ世のことであっても、泣きたいことは幾らでもある。仕事のことでも、学校でのことでも、人間関係でも、肉体的なことでも、経済的なことや権利の侵害のことでも、災害によっても、愛する人を喪ったこと――私にとり、この日は母の命日でもある――によっても、悲しいことは多々あるはずだ。グリーフケアという言葉もある。嘆き悲しむグリーフが、人には当然あるものであり、それをどうケアしていくとよいのか、真剣に考え活動している人たちがいる。
 
中には、教会や指導者が、「罪だ」と冷たい言葉をぶつけることによって、教会で傷つけられる人もいる。これは何ハラスメントなのだろうか。信仰が初めからないと、他人の信仰も理解できない。私の信仰表明を「傲慢だ」と怒りをぶつけてきた「牧師」もいた。そのとき、この人は信仰というものがそもそも分からないのだ、ということが分かった。SNSを見ていると、この程度ではない、暴言の数々で心に深く傷を負わされたキリスト者の声が多く聞こえてくる。そのようなことは教会内にもあるし、教会内だからこそ、もう何を信じてよいか分からなくなるという残酷さがあるため、グリーフケアが教会の中で必要だ、と活動している人々もいる。大切な働きだと尊敬する。
 
泣いてもいい。むしろ、泣ける場ならば、思い切り泣くがいい。それどころか、神に会うそのときに、涙を流してよいのであって、泣きながら神の前に歩み出てよいのだ。説教者は、黙示録を根拠に、そのような慰めの言葉を贈る。あのイエスはどんな死に方をしたのか。神に見捨てられたと嘆きながら死んだではないか。私たちも、たとえ泣きながら死んでも、神は受け容れてくださるに違いない。「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」のである。
 
最後に、テイラーの言葉をもう一度想起させて、説教は終わる。目の前に吊り橋という恐怖がある。美景を眺めて心をごまかす必要はない。足の下の谷底に怯える必要もない。橋を信じ、縄を握るのだ。しかし、一人でそれができる自信がないかもしれない。勇気がないかもしれない。けれども、共に信じようとする仲間がいるではないか。いま共にいる仲間もいるが、先にこの橋を渡り終えた先人たちがいるではないか。橋の向こうで、私を彼らは待っている。どうしたらいいですか、そちらはどうですか。そんなことを尋ねながら、私は勇気を与えられて、一歩足を踏み出して、吊り橋を渡り進むのである。この説教は、本当の意味では、ここから始まるというわけだ。

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