パウロの弁護から信仰へ
ペトロ二3:13-18
神の日、それは世の終わり。それを私たちは待ち望んでいます。新しい天と地が、ここに降りてくるのです。私たちはそのときを、平和に迎えましょう。平和とは、信が揺らいでいない、ということです。不道徳に陥らず、足場を固めている、ということです。凡ゆる妨害や惑いに負けず、神の救いを確信し、見失わないようにしていたいのです。
パウロの思想をペトロが支えている、という設定で教会の危機をひしひしと感じつつ綴った、と理解される手紙ですが、だからこそ、いまの私たちへも訴える切実な力をもっている、と言えるのでしょう。イエスのいた時代から、少しばかり離れてきました。信仰を受け継いで何代目かになっているのなら、私たちとの類比も可能になってきます。
もちろん隔世の桁が違うから、単純比較はできませんが、アドバイスはかなり抽象的になってきており、私たちへも通ずる道が広くなります。主は忍耐してくださっています。それは、世の終わりがなかなかやってこないこと、救いが達成されないことからの不安を物語ります。パウロは、すぐにでも来ると言っていたではありませんか。
自分が存命のうちに終わりのラッパが鳴らされる、とパウロが言っている手紙が出回っています。信徒の信仰はそれを柱に成り立っています。だのに、そのパウロも死んでしまったではありませんか。それを曲解するな、と注意を喚起しているのは、後の時代ゆえの特徴ではありましょう。でも、それを「分かりにくい所が」あるから、としています。
今でもあります、そういうレトリック。当然、誤解を招く表現です。さらに言えば、パウロが奇妙なことを言っているのは確実なのです。それを「無学な人や心の定まらない人」のせいにしているのは、フェアではないと言えるでしょう。信仰において成長するためには、貫かなければならないことがあるものです。神の日を待ち望むべきなのです。
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