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最後の提言

最近、私の中の常識ががたがたと揺さぶられ、崩されることがよくある。私だけがおかしくなったのだろうか、と暗い気持ちにもなる。以下、純粋に分からないこと、なんとかそれを理解しようとした末の、勝手な推測と意見を含めた内容を述べることとする。とはいえ、事実を踏まえたものであることは、当然である。
 
まずは私の偏見めいた感想から。取り上げた聖書箇所が全く言っていないようなことを結論とする「説教」。それは、解釈の相違というのではなくて、つながりが分からず唐突すぎる結論、それも、教会学校で子どもたちに諭すような定番の教えで終わり、なんとなくいいお話だったかのように見せる結論へと落ち着くような話のことである。新しく赴任した教会で、とにかく助け合いましょう、自分を支えてください、とばかり言い続ける「説教」を語りたい気持ちは、分からないでもない。自分が何かをするというのでなく、ただ無条件で自分の味方になるのが、信仰深いことなのだ、と言わんばかりである。少なくとも、私にはそのように聞こえた。
 
いや、これくらいなら、人間くさいことだという程度で、まだ静観することもできた。私の受け取り方が意地悪すぎるのかもしれない、と省みることもできた。だが、私が壊れかけたのは、以下示すようなことによってである。
 
「説教」の原稿が講壇の上で見当たらなくなったので、十数秒探した挙句、原稿がないと言ったら、会衆が少し笑った。この会衆もどうかしているとは思うが、「説教」はそこでもうできなくなって、止めてしまった。この原稿紛失の事件がウケたと勘違いし、第二礼拝でもそのことを話して笑いをとろうとしていた。自分で書いた説教が、原稿がないと、もう一言も言えないというお粗末もさることながら、苟も神の言葉を語ろうとする者が、恥ずべきことを幾度もまた笑いのネタにするというなど、言語道断ではないだろうか。神の言葉を語るべき説教に関する限り、こういうことを冒涜と呼んで然るべきだ、という考えを、私はすでに他でも述べている。
 
翌週、「救い」と「召命」の証しをするのだという。そして転入会の手続きがあるのだという。つまりここまで、教会員でない牧師に対して、報酬を支払っていたことになる。貧相な頭脳しかもたない私には、よく理解できない事態である。その講壇に立つと、まず、今日は原稿があります、と笑いをとる芸人のような眼差しで言った。私に対してはダメ押しだった。因みに、証しには原稿がなくてもよいし、メモくらいであれば構わないが、原稿をひたすら読み上げるようなことではなく、ちゃんと語ってほしい、とは思う。少なくとも「説教者」という立場ならば。
 
そこには、どうやって救われたのかという、救いの証しはなかった。一年前の説教で触れた自身の「証し」の部分においては、ほぼ神学校の話しかしておらず、この人の信仰が何であるのか、結局何も明かされていない。大きな教会の牧師になりたいという夢があったことは分かった。だが、「なんだかんだで信仰をもって」、教会でいざ九十九里浜で洗礼となったとき、その信仰告白に対して教会員が受洗に反対したために、洗礼式が流れてしまったことや、不良仲間との沢山の「やんちゃな」犯罪的経験については、一年前も今回も、教会の中でのどちらの「証し」にも、全く登場しなかった。どうしてだろう。そういうところにこそ、救いの証しが輝くはずなのに、押し隠しているとしか思えない。
 
これらは、別に或るウェブサイトで本人が「証し」をしているので、言うべきところでは話しているのであるが、自分を牧師に迎えてくれるかどうか、という教会においては、明かすと都合が悪いとでも判断したのだろうか、全く触れないでいる。まさか時間の関係だなどということはないだろう。どちらも1分もかかるまい。意図的に言わなかったのである。私ならこうした事実は、率先して証しに加えさせて戴くだろう。実際、私の犯罪については、それが許されて号泣したことが、貴重な神の取り扱いであったことを語らざるをえない。救いとは何であるのか、について痛みを以て知る者は、自分がどんなところにいて、どんなところから救われたか、きっと証しにおいては触れるものである。
 
別の牧師は、そうした弱みを時折話す。自分がどんなにだめであったか。仄めかす程度でも構わないのに、かなり露骨に、どのようなところから自分が救われたか、神の導きが何であったか、を語る。そう、どうせ教会に来ている誰もが、そういう疵を自覚したからこそ、そこにいるのである。その牧師は、母語である日本語が下手である。特に書き言葉は、添削されたら真っ赤になって返ってくることだろう。だが、この人が神に出会ったことを、誰もが疑わない。自分の姿が神の前でどうであったかを、幾度も同じように語っているからである。そこに真実があるからである。その点では、この人の救いと神の前での生き方については、信頼が置けるのだ。私たちと同じキリストと出会った人の語ることには、同じ景色が見えるのである。
 
元に戻る。かの人の「救い」には、「召命」の話もあった。こちらは、一年前に話したことの中心である。だが、一年前には触れなかった、若い友人の死について触れた。神がこんなよい人物の命を奪うことが分からない、と言った。ウェブサイトでもこのことは話している。ただ、それが「献身」にどうつながるのか、は私には分からなかった。「召命」とは召されることなのだと思っていたが、聖書の言葉や神の声に呼び出されたような気配は微塵も感じなかった。すべてが「私は」「私は」であった。
 
また、これはすべての話に登場するが、パワハラ事件の報道を聞いて、焦り悩み、数日後、急に牧師になろうと決めた、という点を話している。召命なのに呼ばれることなく、自分ですべてを決めるわけだ。それは脇に置いておくとしても、どうにもその過程が分からない。どこがどう、牧師になりたいという結論につながるのか、私は理解できなかった。説明が何もないのである。自分の罪を知り、イエスの十字架の意味が分かった、という流れならまだ分かるのだが、その罪という語も出ないままに、自分の姿を知らされて、牧師になる、というのだった。申し訳ない。私の貧弱な頭脳と心では、これが全くつながらないのである。数学の証明に喩えるならば、途中の何かが抜け落ちているために、論理がつながらないという状態なのである。それは、たとえば新しい色鉛筆も買えないほどの貧困の中にある家庭の息子が、「やんちゃ」な時期を経て、どれほどの勉強をしたのか知らないが、ほんの数年後に簡単にアメリカに留学するほど豊かになっているという、不自然な展開についても言える。その間について、一言くらい説明があってもよさそうなものではないか。
 
パワハラで自ら命を絶った方の報道で、「自分の立場を守るために、徹底的に人を追い込んでいた」自分の姿を自覚した。だから、生き方を改めて牧師になろう、と話が進んだ。漠然と、「隠していたい自分の姿が明らかにされたような気がした」と言っている段階から、聖書の言葉などを挟むこともなく、いきなり牧師になると宣言するのである。
 
もしそこを埋めてつなぐものがあるとすれば、私の一方的な想像で申し訳ないが、自身がパワハラかセクハラをしていた、ということのほか、思いつかない。その表現は一度も取らないが、報道の瞬間から、会社を辞めたいと思うほど何日も思い悩んだのは、それ以外に理由があるようには、私には想像できないのである。とにかく何がどうなのか、つなぎの大事なところをあちこち隠して話しているので、もっと分かりやすく説明をしてくれたら、私の妙な疑念はなくなるだろうに。
 
牧師をしている姉が反対したという点には、ウェブサイトを含めすべて触れている。姉は、牧師になると言い張る弟に対して、もう一度思い直せと冷静に説得する。この人は悩む。自分が決断したことは何だったのか。そうだ、自分は大きな教会の牧師になろうという夢があった、そういう自分ではだめなのだ。神のお手伝いをさせて戴くという考えを採ろう。こういう考えの流れで、説得を無視して、だから牧師になる、と神学校に入ることになったという。
 
くどいが、私は、この流れがどうにも理解できない。精一杯推測すると、姉は、ただやみくもに牧師になりたいという弟に対して、それは自分の思い、自我だろうと見抜いていたなどの理由で、牧師には相応しくないという指摘をしたのではないか。そこで、自分の思いだったとこの人は一旦認めはした。しかし、それでは自分の決断が無意味になるというような言い方をして、自分が牧師になることは神の手伝いをすることなのだ、というふうに言えばよいのだ、とした。申し訳ないが、的を外しているかもしれないことを恐れつつも、そうとでも想像しないと、この話が私の中でつながらないのである。それとも、何か別のことがあるのに、この人の日本語の表現が拙いために、他人に伝えることができないのであろうか。あるいはまた、何か決定的なことを隠しているために、伝わらないのだろうか。
 
私などは、自分の救いのために、聖書の言葉が三つは必ず出てくる。しかしこの人は、自分の救いについては微塵も語らないし、聖書の言葉により人生が動かされたというような言い方が一度も出てこない。また、そもそも「救い」という言葉が「証し」の中に出てこないので、神により、また聖書の言葉から行動を起こすということが伝わってこない。神学校に行くことを自分で決断したときにも、聖書の言葉は全く関与していない。しかし姉に反対された後に初めて、聖書の言葉を引用した。教会学校で真っ先に教えるような聖句であった。だが、話している内容とその聖書の言葉とは、合っているようには私には聞こえない。
 
たとえば、自分を正しく見せようとするときに、自分に都合のよい聖書の言葉をなんとか引いてこようとする心理は、キリスト者と雖も、否キリスト者であるからこそ、ありうるものである。誰もがよく知る聖書の言葉を使って、自分の夢を叶えるきっかけを尤もらしく見せようとする、という心理は、私にも理解できる。だが、聖書を説明するためにというのならともかく、自分を正当化するために聖書の言葉を利用することは、私は極力したくないと考える。聖書の言葉は、自分を正しく見せるために用いることは、基本的に危険であると思うからだ。
 
ギリシア語を知らず読めないならば、無理して壇上でギリシア語を用いなくてもよい。説教要旨の文章を見直す時間がなく、表記などにいくつも誤りがあっても、笑っちゃうようなミスが放置されていても、読点の位置がおかしくても、文章がつながらず、あるいは主語述語のねじれがあっても、それはもう必要以上に咎めるつもりはない。だが、説教というもの、証しというものについて、神を信じているのならその神の領域にあるものとして、真摯に考えては戴けないか。神の栄光が現れるのは、人間の罪あるところにおいてなのだ。かっこ悪いところを全く見せようとしないところに、神の言葉を語るという役割が担えるとは、どうしても思えないのである。
 
どうしてこうした有様に、教会でこれを聞いている人々が、気づかないのだろうか。不思議でならない。いや、そうなってしまう理由は少しだけ分かる。なんとなく尤もらしい教会用語を並べて話をしていると、聞いている方が、好意的に間を補って、すべて良い意味に修正し、あるいは補って、聞いたつもりになっていく心理があるからである。聞く方の聖書や信仰に関する知識の枠の中に、次々と落として、すべて良いような意味に解釈してしまうのである。覆われたものは、見えない。だから、気づかないことそのものをとやかく申し上げるつもりはない。だが、「真理」という言葉は、聖書で使われている語としては、覆われていないというニュアンスをもつものだという。開き示されたとあらば、思い込みから解放されなければならないのではないだろうか。
 
聖書を語る立場の人の証しを、もっと問うて戴きたい。神の働きではなく、人間の願望だけで事が運ばれていないか、批判して戴きたい。どなたか、目を覚まして、事象そのものへ目を向けることをしなければ、取り返しのつかないことになりかねない。神の教会ではなく、ただの人間の集まりでしかなくなる道がそこに敷かれていることに、気づかなければならない。万一そうなってしまうと、あの「証し」にあったように、二つの顔を使い分けて、一方でひとを力で追い込んでいくようなことを、無邪気にやっている、という事態が起こるであろう。聖書の言葉を利用するだけ利用して、自分たちは正しいという前提で、若い人を追い込み、教会に来られないようにしてなどいないだろうか。コロナ禍の中で、仲良し倶楽部のメンバーのためにだけ祈っていればよく、そこから弾かれた人についてはなにひとつ気にもしないというようなことが、日常化していないだろうか。これでいいのだ、という自己義認は、どんどんと人を麻痺させて、外れた道を進ませてしまうものである。
 
最後に、重要な点に触れて綴り終えることとする。これらの「証し」の全編を通して、「罪」という言葉は一年前には一度だけ軽く出て来たが、今回はたぶん一度も出てこない。少なくとも、「罪」と向き合った経験があるようにはとうてい思えない。「神さま」と「主」とは口にするが、「イエス・キリスト」については、信じてバプテスマを受けた、という定型句のほかに口にすることがないし、その「信じて」の内容は、ついぞ語られないままである。「キリスト」は、「キリストの教会」という言い方では出てくるが、その程度である。教会に関心のあることは承知しているが、イエス・キリストと自分との関係が微塵も感じられない証しが、私にはどうしても信じられないのである。もちろん、この「証し」の中に「十字架」は出てこない。よく、信仰の基本に「神・罪・救い」をよく挙げるが、「神」という単語のほかは登場せず、イエス・キリストも実質的な意味を伴わないままに、かろうじて一度出てくる、というような証しを、私は聞いたことがない。このような「証し」しかできない人が、説教を語れるようには、私はとうてい思えないし、そこから何を聞けばよいか、見当がつかない。まことに「聞くに堪えない」お話であり、なんの命もそこにはない。それを聞かされ続けると、私は壊れていきそうである。説教は命のことばである、と私の信仰は告げる。命のことばなる説教を、求めている。
 
これを以て、私の最後の提言となることを希望する。

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