新しい歴史が始まる
コロサイ1:9-20
「御子」とあるのは「キリスト」と読むことができるでしょう。すると、より実感が湧くと思われます。人間がキリストの下に支配されるという構図を、罪が赦され救いが実現する姿としてここに示そうとしています。そには、教会が、一定の組織として成り立つようになり、イエスの教えが定まることが必要になってきた背景があります。
福音書でそれは規定されてゆきます。教会が運営していくにあたり、その規定が重要になります。「霊的な知恵と洞察」を以て神を知ってゆくように。「忍耐と寛容」を以てキリスト者として生きてゆくように。父なる神が遣わしたキリストなる御子が、人を救ったのです。「贖い、すなわち罪の赦し」が与えられた、ということです。
いったい、キリストとは何なのでしょう。改めて問われてみると、何故キリストが救い主なのか、不思議です。ユダヤ人の文化を前提としている生活文化の中で育った者は、あたりまえというところがあるかもしれません。それは「メシア」です。でも、旧約の「メシア」は、まだどこか抽象的でした。それが今イエスという姿で具体化したのです。
このイエスにおいて、メシアが救いをもたらしたという信仰告白を以て、「キリスト」と呼ぶギリシア語の形で、教会の主となったのでしょう。キリストは「見えない神のかたち」であり、キリストにおいて万物は作られました。キリストは本来万物に先立っておられ、万物を成り立たせている存在です。
そして教会はキリストの体であり、キリストはその体の頭の部分です。というと、ほんの一部に過ぎないかのようですが、ブレインは全体を支配しているという考え方をすると、それは命の本質であり、また全体であるともいえます。しかしまた、死者の中から蘇った者の第一であり、十字架で殺されて血を流したのがキリストでした。
その死により、この世界には真の平和がもたらされることになりました。万物は、神から背き、滅びに向かっていました。けれども、神との和解がキリストにあって成立するというストーリーが、こうして始まりました。コロサイ書は、壮大な宇宙観を描くように見えますが、人間と神との和解という新しい歴史を始めている点でも壮大でありました。