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まずラストシーンから

ヨハネの黙示録の連続講解説教が先週終了した。休む間もなく、続いて「マルコによる福音書」のシリーズが始まるという。以下「マルコ伝」と称しつつ、今度は新約聖書の福音書から聞いてゆくこととなる。
 
説教者は、簡単にこの福音書の位置について説明を施した。四つの福音書のうち、古代の教会はマタイ伝を重視して最初に並べたが、このマルコ伝は、共観福音書の要約として後から書かれたのではないか、という見方があったという。だが、現代の神学者は、ほぼ例外なく(確かルカを基とする考えの人も見たことがある)、このマルコ伝が最初に書かれ、これに肉付けをする形で、マタイ伝やルカ伝が構成されていった、と理解している。
 
説教者は、今日の説教のために、否恐らくこれからの連続講解説教すべてのために、このマルコ伝に、ひとつの強烈なイメージを与えた。それは、「ひとの心を躍らせる、喜びに満ちた、好奇心をかきたてる」福音書だ、ということである。このことは、これからの長い道のりの中で、つねに幟として立てておき、導きの徴としよう。
 
マルコ伝1:1だけが取り上げられる。「神の子イエス・キリストの福音の初め」とだけ言われる。ここにある「神の子」という語は、重要な写本にないということで、後から書き加えられたという研究がある。ある学者は説教のときに、このことを問い詰め、聖書研究発表の場にしていたが、もちろん福音を語るということは、そういうことではない。この教会ではそうしたことには触れることがない。その代わり、「イエス・キリストは神の子です」ということをここでやたら強く言うような言い方もしなかった。命を語り注ぐためには何を語ればよいか、を考えているからである。
 
むしろ説教者は、この福音書の最初の語を、よく伝えようとした。ギリシア語の「アルケー」である。これを、子どもに物語を聞かせるときの、「はじまり~、はじまり~」という宣言と比較したところが面白かった。
 
もちろん「アルケー」は、ギリシア哲学、特にソクラテス以前の哲学にとって重要な概念である。説教者は、そのことは紹介した。「アルケー」は「根源」を表し、哲学の上では「始源」と訳出することが多い。名前は逐一出さなかったが、万物の始源は「水」だと説明したタレースが、最初にこの原理的な世界の理解をしたと言われている(エピソードが面白い)。「火」はその始源そのものではないが、変化や闘争の象徴として火を挙げたのが、ヘラクレイトス(私は好きだ)である。ピュタゴラスは「数」を始源だとした(宗教の教祖と見てもよいだろう)し、エンペドクレスは地・水・火・気の四元素から宇宙はできている、と説明した。
 
マルコは哲学をするつもりはなかったが、この重要な語を、世界初の文学ジャンルとしての福音書の冒頭に置いた。マルコにとって、福音の土台がここ、イエス・キリストにある、ということを高らかに宣言したのだ。
 
これに続いて、「福音」という語にも着目した。「エウアンゲリオン」というギリシア語である。「よい知らせ」という二つの語の合成語である。ここで「新世紀エヴァンゲリオン」を持ち出したのは、普通ならば常識であるのだが、高齢者が多い会衆に対して、やや遠慮するような口調で持ち出している様子が、ユーモラスに見えた。この語には「天使」を表す語も含まれており、「伝令する」意味が色濃く反映されている。特に、戦争で、勝利を知らせる伝令の意味が強く、神の子が勝利した、という伝令である気持ちが含まれていることは間違いないはずである。
 
ここから、このマルコ伝を読む期待の姿勢が掲げられる。「よろこびの物語、勝利の物語を始めよう」というわけである。著者はマルコという名で呼ぶことにするが、マルコ自身は、イエスの旅に従った人物ではないようであり、いわゆるルポライターなのではない。すでに十字架と復活という福音を受けてから信仰したはずであって、この物語は、十字架と復活の勝利を伝令するのが目的だった、と説明する。もう百年以上前に亡くなったドイツの神学者、マルティン・ケーラーの言葉「福音書は、長い序文を持った受難物語である」を引用して、説教者は、マルコ伝の凡その構成を紹介した。
 
ところで、本日はこのマルコ1:1を聖書箇所として用いたほか、驚くべきことに、マルコ16:1-8も開かれていた。ドラマの初回の最初のシーンと、最終回とを、同時に流したようなものである。この最終回は、もちろん復活の場面であるが、これが実に不思議である。イエス自身が全く登場しないのである。いうなれば、「イエスが消えた」という場面で終わっているのである。これについて、復活は本当に起こったのか、と訝しがる学者もおり、先の、「神の子」の語にこだわった学者もまた、復活については、他の福音書のような復活がなくてもいい、というような考えを講壇で語っていた。他の福音書は、このマルコ伝の末尾に満足せず、復活の場面を描いた、という心理的解釈もありうるとは思うが、だからと言って、マルコ伝が復活を信じていないなどというような理屈にはならないだろう、と私は思う。つまり「信仰」の領域は、そこから先なのである。
 
そこで、この16章から読み始めていい、と説教者は考え、しかも、ここから先は、よく言われる路線の話を辿ることとなる。つまり、マルコ伝は、この16章を見たら、イエスと共にガリラヤに戻れ、つまり第1章に戻れ、というのである。そこで、このラストシーンからまず語り、物語の初めに戻る、という文学的手法を、この連続講解説教でも用いた、ということなのだろう。
 
スタジオジブリがアニメーション映画で最初に注目されたのは、たぶん「火垂るの墓」だったと思う。それと抱き合わせて上映された「となりのトトロ」は、最初は注目されなかった。後にこのトトロが、スタジオジブリの象徴のようになってゆくのだが、最初は同時上映だったのだ。これはその後の人たちには信じられないらしい。映画と小説とは少し違うところがあるが、物語の最初、清太が死んだ場面が始まっている。それから、事の次第を最初から説明するという段取りになっている。マルコ伝と似た構成があるわけである。
 
この映画に妙に詳しく触れたのは、この説教日の79年前の9月22日の午後、前日に死んだ清太くんが、荼毘に付されたということになっているからだ、この一月前の8月22日に、妹の節子が死んでいる。
 
説教者は、映画やドラマ一般についても、触れることがあった。それは、ラストシーンを見た後、もう一度その映画を観るということの意味である。最初に見たときには気づかなかったけれども、ラストシーンを知ってから、もう一度最初から観ると、さまざまな伏線が敷かれていることに気づく、ということである。このことは私も喩えで説明したことがあるから、説教者が今日言おうとしていることは、手に取るように分かる。結末を知ってからだと、もう一度観たら、様々な仕掛けに気づくのだ。これは、推理ものの場合、顕著だろうが、どの作品にも、そういう部分があるはずだ。
 
この16章には、聖書を出版する上で、幾つかの「結び」が付加されている。どうも後世、マルコ伝に書き加えがあったことは、遺った写本から間違いのないことらしい。そのような書き加えでは間に合わなくなって、マタイ伝やルカ伝という別の建物が建てられた、というのが実情なのだろうとは思うが、謎はともかく、マルコ伝はどうして、復活の記事をこのような中途半端な形で止めたのか、ということである。
 
マルコはもっと書きたかったが、何らかの事情でここで筆を折ったままになった、という推測も成り立つ。この続きが失われてしまったのではないか、と考える人もいる。否、これでよいのだ、決して中途半端ではなく、これで完成しているのだ、という理解も可能だという。実際どうなのか、それは誰にも分からない。分からないから謎なのであるが、さしあたりここでは、第三の道を選び、ガリラヤに戻れという命令が、マルコ伝の最初のガリラヤの場面に戻れというサインだとし、さあ、このようなイエス・キリストの十字架と復活を知ったあなたが、最初からこのイエスとの旅を経験したまえ、という再読命令だと受け止めて、これから読んでいこう、という動機を植え付けたのである。
 
その結果――イエスとは誰であったのか。イエスとあなたは、どういう関係にあるのか、どういう関係をつくろうとするのか。もう一度、それを知るのだ。改めて、イエスと出会うのだ。
 
復活をあなたはどう受け止めるか。あなたは復活するのか。復活の恵みに与ることができると信じるか。これからのあなたの歩みの中で、この復活のイエスが現れるであろう。あなたがイエスと出会うならば、この福音書は、あなたの命となるのだ。
 
説教者は最後に、加藤常昭先生の話を加えた。案外長い時間、それを語った。だが私は、ここでそれを再現しようとは思わない。ただ、たとえば晩年、「死の恐れに勝つ」という説教を加藤先生は語っている。死を怖れる心があることは、牧師として、説教者として、失格に値するようなことなのだろうか。だが、それは死と向き合うこと、自らの罪を知ること、神を畏れること、そうしたことの積み重なった結果に出てくるフレーズではないだろうか。イエスが十字架の上で、絶望的な叫びをしたことが、マルコ伝のイエスの最後の言葉として遺されている。このことから、イエスはとても「神の子」ではない、というような言い方をする学者もいる。だが、この痛みと絶望を味わうことが、神の子ではない証拠にはならないはずである。少なくとも、そう思うことが「信仰」というものではないだろうか。
 
説教は、普遍的な理論を説明することではない。学者の研究は、多くの労苦に基づくものであり、その学問的成果は、人々のために役立つことが多い。だが、当人が信仰と向き合おうとするとき、ひとつの罠がある。それは、研究結果の事実から、一定の解釈や推測を自分の信念に基づく判断から下すとき、その判断までもが事実である、と錯覚してしまうことである。その事実は、他の人には、学者の信念通りには受け取らない自由があるのである。問題は、神に呼びかけられ、神と向き合って、そこで問われた自分が、どう決断するか、というところにある。それが「信頼」であり、あるいは「信仰」と呼ぶ事柄であるのだ。
 
人の声に惑わされず、人々の無責任な思いつきに酔わされず、私たちは「しらふ」でありたい。そして、自分の中で湧き起こることを第一としないように、と戒めつつ歩みたい。説教者は強調する。「救いは、自分の心の中からは生まれない。救いは外からくる」と。但し、漠然と何かが降ってくるような形でひらめくことにも、警戒しなければならない。私たちは錯覚してしまうのだ。実は自分が勝手に思い込んでいるのに、それは神が自分に与えた知恵なのだ、と。私たちは、イエス・キリストに聞こう。キリストは、神を私たちに分かるように見える形で与えてくださった方である。このイエスと共に歩む物語が、さあ始まる。このよろこびの光が結末に待っていることを楽しみに、いろいろな伏線に気づかせて戴く旅を始めよう。イエスに呼び集められた弟子の一人として、そこに加わろう。
 
説教者は、幕開けの拍子木を叩く。「はじまり~、はじまり~」

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