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直方体の点線

直方体の見取図を書かせる。経験上、小学四年生が境目になるように思われる。それより下だと、かなり厳しい。それより上になると、ほぼ適切に書ける。空間図形を平面図にするというのは、かなり高度な能力なのである。
 
不思議なもので、見た目は長方形がひとつと、平行四辺形がふたつの図であるのに、人間はそれを、立体として認識する。その立体性をよりはっきりさせるために、点線を加えることがある。実際、背後の辺を点線で書く、というのが算数のルールである。それは、「見えぬものでもあるんだよ」の世界でもある。
 
確かにこちら側からは、背後の辺は見えない。だが、立体として見る限り、それは確かに存在する。人間は、そのように了解する。自分からは見えないから、それは存在しない、と言い張ることは、奇妙だと誰もが思うだろう。そこに辺がないと、支えられないではないか、などと理由を述べることも可能である。逆に言えば、その心理を逆用して、エッシャーばりにトリック図をつくることも可能なのだが、いまはそれについては考慮しないことにしよう。
 
見えないから、それは存在しない。そう言うことのほうが、どうやら不自然であるケースがあるようだ。思えば、科学というものは、そうした認識の上に成り立っているはずである。微小な分子や原子は、見えやしないが、存在すると理解している。尤も、顕微鏡の発達で、それらを「見る」ということも可能になってきているが、だとしても、電磁気について「見る」というと、電流計やオシロスコープなどの機器で代替物を見たか、あるいは何らかの現象を見て、存在を推定したか、そういうところであるのではないか。
 
うわべだけを見て、騙される。そんなことを気にする人もいる。しかし、そのように言うこと自体が、そのうわべの背後に何か本当の姿がある、ということを想定しているからであるに違いない。
 
愛や平和などというものも、そうした想定なのだろうか。何かしら善いものと見なしているそのようなものは、「理念」と呼ばれることもある。カントはその「イデー」を「理性概念」のことだと言い切ったが、日本語訳のほうが、「理性概念」即ち「理念」というふうに見えて、その関係が理解しやすく、優れているものだと感じる。
 
背後に、善なるものが存在する、というのは、果たして無駄な迷いであるのだろうか。空しい幻だ、とペシミストは言うかもしれないし、懐疑論者も皮肉めいた眼差しで、世間の人々を眺めているのかもしれない。
 
神が存在するなら、見せてみろ、と挑みかかる人がいる。きっと、神が存在してほしいのだろう、と私は推測する。神が存在しないかのように見えるこの世界の出来事について、本当はいてほしいのに、という思いがあるのだろう、という気がする。
 
この世界を創造し、また支える神がいてほしい。否、それを「いる」という信念が自分にはあるのだ、というところに立つと、勇気が与えられることだろう。それとも、そんな能天気な人々に対して、神がいるなどと言っても、張りぼてのように見せかけに過ぎない、とニヒルにほくそ笑むほうが、利口なのだろうか。
 
直方体のあちら側の辺を、私たちは常識だと言わんばかりに点線で書くのに。

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