平和への道
主イエスを中心に生きようとする。説教者は、まずそれを今年の抱負として掲げた。もちろん毎年そうなのだろう。人生の中心にイエス・キリストがいる。そうでありたい。本当にそうだ。
次に、場面はエルサレムに主イエスと弟子たちが来るところ。ルカによる福音書のイエスは、ひたすらエルサレムを目指す。そこで十字架に架かり、復活するという形で姿をかえる。その後は、聖霊という形で神は、エルサレムから世界へと拡がっていく。
イエスの目に涙が光る。平和への道を弁えていなかったことに涙し、都の破壊を嘆く。それでも、イエスに執っては、そこへ来ることが、必需であった。ついに来た。エルサレムへ来た。――説教者は、このイエスが、「私のところへも、あなたのところへも」来たのだと告げた。
ああ、なんと臨場感溢れるメッセージであろう。聞く者の許に、確かにいまイエスが来たのを感じた。私のところにも確実に来た。このようなメッセージは、説教者自身がイエスの訪れを知ることなしには、語れない。確信をもって語るための前提というものがある。
自分など、いてもいなくてもいいのだ。そんな絶望的な思いに苛まれる人がいることを思いやり、イエスが来たのだ、と告げる。イエスが来たからには、絶望は希望に変わる。否、きっと絶望を知ったからこそ、そこからのみ、希望が生まれるに違いない。希望が与えられるに違いない。
最後に、説教者は、神との応答の関係を求めよ、と言った。そして祈るのだ。神と向き合うことが必要だ。神と向き合うことが、祈りの本質である。それが信仰ということであり、そこからのみ、教会が築かれるのだ。
平和の道を弁える、それは簡単なことではないだろう。だが、主イエスを中心に生きようとすること、自分の許へイエスが来たと知ること、そして神と向き合い交わること、そこからきっと、そこへ至る道が見つかるに違いない。否、それ自体がすでに、平和の道なのではないか。そんな希望を受ける説教であった。