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年末年始特集・小説「ヤエル」7
ヤエルは、戦いが行われていることを知らなかった。ただ、エミマとともに、イスラエルの神に祈りを捧げていた。
「主よ。イスラエルの民が虐げの中から叫び、立ち上がろうとしています。どうか勝利をお与えください。この願いがきかれるとき、わたしはあなたの全き僕となりますから」
ヘベルはいなかった。もう何日も、ここには戻っていない。仕事に必要な品々を買ってくると言って出かけたままだ。
だが、イスラエルの反乱に巻き込まれたくなかったから、どこかへ姿をくらましたに違いないとヤエルは思っていた。この近くにはイスラエルのナフタリ族がいくつもの町を築いている。なるほど、元来この辺りにいたカナン人などももちろんいる。だがかつての勢力はすっかりイスラエルに圧されて小さく なっていた。荒々しくヨルダン川の向こうから越えてきたイスラエル民族。鉄を産しないとはいえ、油断できない相手である。イスラエルが蜂起すれば、この天幕を張る地にも影響が出ないとも限らない。ヘベルはそれを案じたのだ。
『自分だけ……』
ヤエルは不満を隠しきれなかった。それをエミマが慰めた。その慰めが時にかなっていたので、ヤエルはますますイスラエルの神、主に傾倒していった。
日が傾いていた。間もなく一日の業を終え、安らかな夜を迎えようとしていた。
一人の下男がヤエルの天幕を訪れた。
「ヤエルさま。こちらへ向かう客人が南方に見えましたのでご報告いたします」
「客? それはまた、どんな……」
「それが、兵士……カナンの武将にございます」
「カナンの武将?」
ヤエルは心当たりがなかった。
「危険な人物のようですか」
「いえ。見たところ、落ち武者とも言うべき姿です。一人しかいないようですが、もしものことがあれば、と案じて……」
「分かりました。一応の準備だけはしておきなさい」
ヤエルはエミマを見た。エミマは不安そうな顔をしていた。
「心配しないで。一人で荒らしに来るような者はいないわ。それより、もし客人として迎えたならば、命を懸けてでもその方を守るというのが、遊牧民の掟。そちらのほうを考えておかなければなりません」
じっと見つめるエミマの眼差しに、ヤエルはほほ笑みを返した。
「さあ。もてなしの支度をしましょう」
覚悟はあった。今は夫がいない。女主人として、自分がこの一群を統率しなければならない。ヤエルの気高い心と勇猛な心とが、今立ち上がろうとしている。
シセラは疲労困憊の中にあった。ずっと歩き通しだった。追っ手が来ないかと振り返りながら走るのは、精神的にもこたえた。今その疲れが一気に押し寄せ、また最後の緊張が走る。あれはたしかにヘベルの天幕のはず。だがもしもそこにイスラエルが手を回していたら……。
主人のものと思われる天幕を、シセラは硬い表情で訪ねた。
「もしもし。こちらはカナン王ヤビンの僕、ヘベルの天幕であるか」
「そうです。ただし、わたしは妻のヤエルです。夫は今ここにはおりません」
ヤエルは毅然として答えた。
「いない? 戻ってはいないのか」
シセラは思わず声を出した。それでは、あれからさらにどこかへ逃げたのだろうか。いや、そんなことは今はどうでもよい。
「主人が留守の間にかたじけない。私はカナン王ヤビンの僕、将軍シセラと申す」
「まあ……」
ヤエルは驚いた。ヘベルが褒めたたえていた強い将軍が、布一枚向こうに来ている。なぜにこのようなことが。
「武運尽きて、ここへ逃れてきた。今宵、ここで休ませてほしい」
ヤエルは天幕の入り口を開けた。頑丈そうなからだの男が一人立っていた。甲冑も付けず、そのたくましい腕と剣がなかったら、武将であることさえ分からなかったかもしれない。傷こそないが、疲れ果てた様子は、たしかに敗残の兵という立場を示すもの。ヤエルは、するとイスラエルが勝ったのか、と心のうちで喜びが沸き起こった。
「突然のことで、申し訳なく思っている。だが今はとにかく、休ませてもらいたい」
まだ肩で息をしている将軍に対して、ヤエルは無下に断ることはできなかった。
「分かりました。夫の仕える王の将軍ともあれば、わたしの主君にも等しい方。お入りください。この天幕で、ぐっすり休まれるがよいでしょう。どうぞ、一切のご心配を捨て 去ってください」
「かたじけない」
シセラは天幕に足を踏み入れた。すでにからだが倒れかかり、ヤエルのための床に膝がかかっていた。
「構いませんことよ」
ヤエルの声が聞こえたのと同時に、シセラはからだを横にした。ヤエルはそばに寄り、上からそっと布を掛けた。
「もしも追っ手が来ても、こうして隠れていれば大丈夫ですのよ」
「済まぬが、そのように頼む」
シセラは、己が身の幸運を天に感謝した。
「もう一つ、願いたい。ここまで半日、なにも食べずなにも飲まずに来た。せめて今、なにか飲むものをくれないか」
「造作もないことです」
ヤエルはエミマを呼び、革袋に溜めたヤギの乳を持って来させた。
「さあ、これをどうぞ」
シセラは布をまくり上半身を起き上がらせ、乳を浴びるほど飲んだ。半ばヨーグルト化していたそれは甘酸っぱく、心地よく腹を満たした。そしてひとつため息をつくと、再び横になった。
「申し訳ないが、ここまで追っ手が来ないとも限らない。どうか天幕の入口に立って、敵が……つまりイスラエル人が来ないかどうか、見張っていてもらえないか。もし誰か人が来て、ここに逃げ込んだ者がいないかと尋ねたら、誰もいないと答えてほしい」
「当然のことです」
ヤエルはにこやかにそう言って、布をシセラに被せた。将軍は顔を横に向け、深い息をすると安らかな眠りに落ちた。
ヤエルは天幕の外に出た。エミマが心配して近づいてきた。
「どうされました」
「大丈夫。もう眠ったから」
「どういたしますか。男の方を天幕に迎え入れたことが旦那様に知れると、大変なことになりましょう」
「おそらく、だからこそ、シセラはわたしの天幕を好都合と思い、安心したのでしょう」
「どういうことですか」
「誰も、まさか女のところに逃げ込んだとは思わないでしょうから」
「なるほど、そうですね」とエミマは感心しながらも、これからのことが不安で仕方がなかった。「でも、これからどうされるおつもりですか」
「わたしに考えがあります」
ヤエルはそう言って、自分自身に声をかけるように力強くうなずいた。そして天幕の後ろに回り、余分な杭を探した。天幕を留めるための予備の杭が三本あったので、そのうちの一本を左手に、杭を打つための木槌を右手に取った。(つづく)