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私にできること (士師記8:1-9, マルコ14:3-9)

◆キリストの体

教会でお話を聞いていれば、どこかで「キリストの体」という言葉を聞いたことがあるでしょう。聖書も教会も知らない方々には、なんのことだ、と訳の分からない言葉はたくさんありますから、それは狭い世界でのみ通じる専門用語であるわけです。
 
イエス・キリストを信じる者たちは、共に手をつなぎます。互いに祈り合いますし、共働して何をします。しかし、皆が同じことをするわけではありません。人それぞれに才能があるし、役割があります。一人ひとりに分け与えられた才能を「賜物」と呼ぶこともあります。これもいわば業界用語です。
 
一人ひとりは違うのに、同じ神の働きに参与している。思えばひとの身体も、各部分はそれぞれ違う働きをするのですが、同じ私という人間の体だと称されます。こういうわけで、キリスト者はキリストの体の一部分であるのですし、教会というものがキリストの体なのである、というように呼ぶのです。
 
新共同訳の場合、「キリストの体に結ばれて」のような表現が新約聖書の随所に出てきます。ギリシア語の原文には「結ばれて」と訳さねばならない語はありません。大抵それは英語の「in」のことで、「キリストの中で」の感覚、あるいは従来のように、やや抽象的に「キリストにあって」とでも言えばよいところです。
 
ともかく、教会はキリストの体である、ということは幾度も強調されます。そこに属する信徒がまたキリストの体だ、というような言い方もしています。特にパウロは、イスラエルの外の土地でイエスのことを伝え、各地に教会と呼ばれる信徒の集団を生み出しましたから、パウロが書いた書簡の中には、キリストの体としてひとつになってくれ、というような強い願いが感じられることが度々あります。
 
引用しませんが、エフェソ書には、有名な箇所があり、このキリストの体なる教会を大きく取り上げています。結婚式のときに読まれることもあります。キリストが教会を愛したということと、結婚とを重ね合わせて論じられているからです。
 
但しこのエフェソ書は、よく見るとコロサイ書を焼き直しているように見えるほどに似ており、また、この「キリストの体」という考え方も、パウロのコリントの信徒への手紙の第一をそのまま踏襲しているだけのようにも感じられます。
 
本日は、それらのどれも引用することは差し控えます。ただ「キリストの体」、それが教会であることを確認しておきます。人それぞれに、また世にある教会のそれぞれに、相応しい役割があって、つながり合い、助け合っていることを信じたいと願います。いえ、私たちはそれを信じているはずです。
 

◆疲れていたギデオンたち

お開きしたのは、まず旧約聖書の士師記です。エジプトから逃れてきたイスラエル民族が、カナンの地に住みついた後、まだ12の部族が統一されているとは言えない状態だった頃の記録だとされています。
 
士師記に限らず、旧約聖書には、まだ「教会」という考え方や言葉は出て来ません。しかし遅い時代(詩編・シラ書)になると、「会堂」という言葉は登場します。エルサレムに立派な神殿ができて、そこで神を礼拝するということが行われるようになってからのことですが、エルサレムの神殿は、いわば「本山」のようなものであり、地方に住む人々は、その地方で礼拝所をもっていました。それが「会堂」です。
 
そこは、ただの宗教施設であるのではなかったようです。いまでいう「公民館」のような役割を果たしていた、とも言われます。宗教と政治とが一体化している時代でしたから、人々の集まる場所として、様々なことを行う場であり得たわけです。
 
士師記の時代には、まだ律法らしい律法が機能していなかったと思われます。モーセが定めたたくさんの律法があるのに、と不思議に思われる方もいるかもしれませんが、その背景については、いまは特に申し上げないで進むことにします。士師記の時代の礼拝のスタイルや、主なる神への信仰については、学者が調べても、そう簡単に解明できているとは言えないのではないかと思います。地域社会によっても違っていたことでしょう。
 
士師記は、イスラエルに当時ぽつんぽつんと現れた、リーダーたちの物語を描きます。イスラエルは、まだカナンの地を独占していたわけではありませんでした。土着の民族がいくらでもいます。聖書が勇ましく描くように、原住民を勇ましく追い出した、という理解も可能ですが、よく聖書を見ると、それなりに共存している場面があると見るほうが自然です。但し、やはり折り合いは悪かったようです。何らかのリーダーが求められるのは必然でした。
 
神からの白羽の矢が立てられたのは、このとき、ギデオンという者でした。今日選んだのは、その指導者ギデオンです。最初は弱気で、自分がリーダーになどなれませんよ、と神に申し上げましたが、神のほうが選んだとあっては仕方がありません。少しばかりすったもんだがありましたが、勇敢な大将へと育ってゆく物語が描かれています。
 
今日お開きした箇所の直前で、ギデオンが、厄介な相手だったミデヤン人を、少人数で制圧する場面がありました。多くの兵士は必要ない、と神が減らすようにギデオンを導いたのです。面白いやりとりがありますが、今日は説明を割愛します。このとき、人数を減らされたことで、イスラエルのひとつの民族であるエフライムの人々が、不平を漏らします。自分たちを置いて戦いに行ったのはどういうことなのだ、とギデオンを責め、詰め寄るのです。
 
私は捻くれていますから、このエフライムの人々の迫り方には、別の意図を覚えます。きっと、ギデオンの戦いをじっと見ていたのでしょう。あの強いミデヤン人と戦っても、勝つことはあるまい、と見込んでいたと思うのです。まだ部族は統一されていませんから、仲間意識はそれほど強くありません。負ける戦に加わっても損害が出るだけです。ひとつ様子を見ていよう、と。するとギデオンが勝ちました。戦利品を得ています。おいおい、仲間じゃないか、言ってくれれば戦ったのに、自分たちを呼ばなかったのはギデオンに非があるぜ。ここはひとつその非を認めて、我々にも分け前を寄越してくれよ……。
 
関ヶ原の合戦も、そのような駆け引きがあったのでは、と言われていますが、この企みに対して、ギデオンはそれなりに平和に解決します。相手の言いなりになるのではなくて、知恵を以て和解へと導くのです。
 
その困難を抜けて、ギデオンは、まだ残党なる敵兵を追いかけて行きます。ミデヤンの王は、まだ捉えていなかったのです。
 
4:ギデオンはヨルダン川にやって来て、彼の率いる三百人と共にこれを渡った。彼らは疲れていたが、なお追撃を続けた。
 

◆キリストに生かされて

実は今日、私がお話しすべく与えられたテーマは、「教会」でした。しかも、教会員、教会を構成するメンバーのお付き合いのことでした。それなのに、このギデオンの話がひとつ気になって仕方がなかったのです。「彼らは疲れていたが、なお追撃を続けた」というこの勇敢さに、心を惹かれたのです。
 
少人数で戦いに挑んだことは、先ほど申し上げました。神は、人の見た目の数に頼ることをさせず、神の命令に従って極限まで人数を減らしたのです。それは、その戦いが人の栄光をもたらすのではなく、神が戦い、神の栄光を現す機会となるからに他なりません。
 
しかし、やはり少人数です。最初の勝利はそれでよいとしても、さらに追撃する体力が、果たしてあるのでしょうか。その心配をするとき、聖書をお読みの方は、よく次のイザヤ書40章を思い起こします。
 
28:あなたは知らないのか/聞いたことはないのか。/主は永遠の神/地の果てまで創造された方。/疲れることなく、弱ることなく/その英知は究め難い。
29:疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる。
30:若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
31:しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない。
 
イスラエルの民の罪を暴き、その結果としてバビロン捕囚の憂き目に遭うことを語った預言者イザヤでしたが、神はこのイスラエルを再びイスラエルの地に回復することをも、イザヤの口を通して約束しました。この神である主は、イスラエルの疲れを豊かに癒やすのだと言います。疲れた者には、神から力が与えられます。主を待つ者は、新たな力を得ます。鷲のような翼を広げて舞いあがる、という表現は、その様が目に浮かぶようです。しかも、走ってもなお弱らず、歩いても疲れることがないのだ、と宣言します。
 
肉体的に、あるいはまた精神的に、ひとは疲れることがあります。過労の毎日で、よくぞ倒れないものと思われる方もいます。すでに倒れた方、命を奪われた方もいます。キリスト者にもいるのだと思います。ですから、「信仰があれば疲れない」などという無責任な言い方をするつもりは、全くありません。
 
「教会とは、イエス・キリストを中心にした、愛に満ちた神の家族です」と、にこやかに語る指導者がいるかもしれません。理念が間違っているとは思いませんが、自分が「先生」と呼ばれていい気になっていると、「信仰があれば疲れない」などと、つい自分の信仰の本音を口走ってしまうことがあります。いわばぼろが出てしまいます。思いやりがないのです。愛などないのです。私たちは、実際疲れるのです。しかし、疲れてはいても、ギデオンたちは、追撃を続けたのです。追撃しなければならない者を、追う勇気と力が、あったのです。
 
追撃隊は、スコトやペヌエルの地に入ります。どちらもヨルダン川の東岸にあります。とくにペヌエルは、ヤコブが夜中に謎の人物と角力をとった地としてよく知られています。まずスコトの町で、ギデオンは願い出ます。
 
5:彼はスコトの人々に言った。「私に従って来た兵にパンを与えてください。彼らは疲れています。私はミデヤンの王、ゼバとツァルムナを追っているのです。」
 
兵士たちにパンを与えてほしい、と住民に頼みます。士師記の時代なので、統一王国ではありませんが、同じイスラエル民族だという自覚はあったものと推測します。イスラエルのために自分たちは戦った。ミデヤン人を追い出そうとしている。しかし兵士は疲れている。どうか兵士たちにパンを、と求めたわけです。
 
教会と比較しましょう。ギデオンは指導者でしたが、自分の疲れを表に出すのではなく、どうか兵士たちにパンを頼む、と願いました。教会は、このスピリットを理解できると思います。自分のことではない。教会の人たちに、教会のために働く人のために、必要な糧を与えてくれ、もてなしてくれ。生きる力を与えてくれ。そう願うのです。
 
思えば、イエス・キリストこそ、そのようにして弟子たちを大切に支えたのではないでしょうか。私たちもまた、同じイエス・キリストによって、こうして支えられて、生きる力を与えられているのに違いありません。
 
スコトの人々は結局ギデオンの頼みを聞いてはくれませんでした。ペヌエルの人々も同様だったといいます。そのため、ギデオンはそのことの報いを宣言し、後にそれを実行します。その措置が正しかったのかどうかは私がとやかく決めることではありませんが、ギデオンは神の前に誓った正義を、現実に果たしたのだ、という意味にいまは受け止めてみることにします。
 
確認します。ギデオンに従う兵士たちは、疲れていても、なおできることしました。また、ギデオンは、部下たる兵士たちのことを第一に考えて、交渉に臨んだのでした。心に留めておきたいと思います。
 

◆完璧なことをした

もうひとつ、私の心に与えられた――思い起こされた――逸話があります。その光に映し出されたのは、香油をイエスに注いだ女です。イエスは都市部よりも、むしろ田舎みたいなところを好んで歩いたように見えます。そして多くの人のもてなしを受けました。もてなしは、中東の文化だといいます。旅人を手厚くもてなすのは当たり前なのです。旧約聖書でも、そういった場面はいくらでも探すことができます。
 
イエスが食事を出されたのは、差別的な扱いを受けていた皮膚病のシモンの家でした。そこへ一人の女が現れます。手に持つのは、石膏の壺。アラバスターと呼ばれることもありますが、そもそもギリシア語でそう呼ぶものなのでした。材質が本当に石膏であったら、ひどく傷つきやすいので、石膏ではないタイプだったのかもしれません。その壺の中には、香油が入っていました。「純粋で非常に高価なナルドの香油」だといいます。
 
マルコによる福音書では、その壺を壊したと書かれてあります。具体的にどのようなことをしたのかは私には分かりません。それだけの香油を溜めるためには、女自らがどのような苦労をして、長い期間金を貯めたのか知れません。きっと労働者の年収以上の価値があったのでしょうから、私たちにとってはちょっとした高級車も買えるような感覚です。そのため、何か怪しい仕事によるものではなかったか、とも言われます。ともかく、その高価極まりない香油を、惜しげもなくイエスの頭に、女は注いだのです。
 
これはたまりません。どぎつい香料の匂いが部屋中に漂ったはずです。へたをすると、「臭い」と記したほうがよいくらいの激しい香りとなっていたことでしょう。
 
マルコが記すには、「ある人々」がこの事態に憤慨したとしています。マタイではこれが「弟子たち」の役回りでした。これを売れば、貧しい人々に施しをすることができたじゃないか。尤もらしい社会正義を口にしますが、多分にそれはポーズです。人が人を嫉むとき、自分でもやるはずのないような善行を引き合いに出すものです。
 
しかしイエスは、「するままにさせておきなさい」と言いました。無責任な正義感の輩に対して、はっきりとノーと突きつけたのです。この人を困らせてはならない旨を口にした後、「私に良いことをしてくれたのだ」と言いました。これは少し謎めいた言葉です。
 
ここで「良い」と訳されている原語は「カロス」です。先般ある説教で学びました。この言葉は、ただ「良い」という程度ではなく、元来「美」を表し、さらに「真」の意味をも含みもつそうです。「真善美」という理想をすべて兼ね備えたとびきりの良いものであり、そのときの説教者は、こことは違う聖書箇所でしたが、「完璧」と訳して話していました。
 
この女は、イエスに「良いこと」をしました。イエスから見て、「完璧なこと」をしたのです。だからまた、そこに「できるかぎりのことをした」ともマルコは記しています。ですからやはり、最高度の称賛です。そのため、世界中どこででも記念として語り伝えられる、というようなことを言って、イエスはこの場面を結んだのでした。事実、いまもこうして私たちキリスト教会が、記念として確かに語り伝えていることになります。
 

◆本当に記念にしよう

でも待ってください。本当に、記念として語り伝えているでしょうか。私たちは、福音書で類似の箇所をもっていますが、それらと照合したり重ね合わせたりして、罪深い女が悔い改めのためにイエスに接し、涙を流しながらイエスを拭った、というようなストーリーにまとめあげていないでしょうか。マルコは、罪や涙など、全く書いていないではありませんか。
 
罪や涙へと先走りせず、もうしばらくこの「良い」ということ、つまり解釈を加えて言えば「完璧」ということを気にしながら、この記事を受け止めてみたいと思います。この女の「できるかぎりのこと」は「完璧」と言えるものでした。香油を注ぐということが、私たちにとってどういうものとして受け止めればよいのか、それを一意に決めてかかろうとは思いません。お読みの方がそれぞれに、自分にとって「香油を注ぐ」とは何か、神から問われてお考えになられたらよいと思います。
 
しかし私は私なりに、受け止めてみます。この貴重な金を、女はどのようにして集めたのでしょうか。労働者の年収ほどもあろうかという金額がそこに記されていますが、年収をすべて香油に換えるというのは、どういうことなのでしょうか。それをイエスのために一度に使い切ったというような雰囲気がここにあります。イエスをひたすら愛した、というだけで説明できるのでしょうか。
 
しかも女手ひとつで、それだけの年収です。いずれを考えても、尋常ではありません。夫や子どもがいるような雰囲気は伝わってきません。「罪深い」との解釈が出てくるのは当然とも言えます。しかしマルコが書いていないため、いまは決めつけません。ただこの女は、イエスに出会って、貴重なものを全部注いだのです。十字架へのカウントダウンが始まっていたイエスに対して、もうこのいましかチャンスがない、とでも思ったかのように、全部注ぎだしたのです。
 
「注ぐ」というのは、ひとつのメタファーなのでしょうか。私たちは「愛情を注ぐ」とよく口にします。自分のもっているものを、惜しみなく、もはや自分にはなにものも残ることがないというほどに、相手に渡してしまうのです。
 
私たちは、いえ、私は、と申しましょう。イエスに愛を注いでいるなど、おこがましくてとても言えません。イエスから愛を注がれていることにさえ気づかないほどに、鈍感な者です。どんなにイエスに愛されているか、ごく偶に気づいて慄然とすることはありますが、日常はそんなことを考えもせず、のほほんと気楽に生きています。
 
「この人のしたことも記念として語り伝えられる」とイエスは言いました。「記念になる」のです。それは、この文書を受け継ぐ者たちが、つまり有り体に言えば教会が、教会の人々が、この出来事をいつまでも覚えておく、ということです。そのためこの出来事は、ただの個人的な業である、というだけのもので終わるものではなくなります。後の教会は、これを範としたのです。
 
「弟子たち」であれ「ある人々」であれ、このとき恐らくそこにいた男たちが、この女に教えられたのです。女はただ一定の行為をしただけです。けれどもイエスは、その行為に意味をもたせました。イエスが説明を加えました。そのことで、教会の者たちは、その意味を知ることができたのです。それがどんなに大きなことであったのかを覚らされ、その心に激震が走ったのです。
 

◆説教者にできること

さて、ここからは、今日見せられた景色を振り返ることにしましょう。まず私たちは、ギデオンのエピソードを読みました。興味深いストーリーでしたが、私たちが関心をもって見たのは、疲れていてもできることがある、という励ましでした。疲れていても、まだ使命を帯びて、任務を遂行する兵士の姿に驚きました。また、そのときリーダーたるギデオンが、部下のことを第一に考えて、土地の人々に助けを求めた場面を知りました。
 
教会のメンバーは、互いに愛し合うのです。新約聖書から、私たちはそのように教えられることがあります。もちろん、間違っていることは何もないのですが、それを口で言うだけなら、簡単なことです。クリスチャンは互いに愛し合いましょう――掛け声はよいのです。しかし、それを真に受けた純朴な若者が、教会の大人たちの愛のない姿を見て落胆し、教会を去って行く姿を見ることがあります。悲しく思います。教会に不満をぶつけてくれたなら、さすがの大人たちもそれと気づくのでしょうが、基本的に黙って去ります。大人たちは、自分たちが原因であることを覚ることなく、その後も同じような歴史を刻んでいくことになります。
 
愛し合う。実際、どうすればよいのでしょうか。このことに関して、イエスは何を願っているのでしょう。聖書から命じられることは、私たちには無数にあるように見え、途方に暮れてしまいます。命を棄てよ、と迫るような言葉に思い悩むこともあります。逆に、それは比喩だよ、とせせら笑うような人もいます。
 
私たちは、聖書からいろいろ命じられる意識をもちますが、私たちは自分の生活を保つだけでも手一杯です。日々の生活や仕事にへとへとです。その疲れを癒やされようと日曜日に教会に行ったら、礼拝の説教の時間が、まとまって寝られる心地よさを提供してくれるという人もいます。そうした生活の困難を思いやり、京都の教会の牧師は、説教中に誰かが舟を漕いでいても、許してくれていました。ここに来た、それだけでも祝福なのです、と。疲れていても、礼拝に出席したのであれば、大いに受け容れようということでした。
 
たとえ眠っていなくても、礼拝説教を、果たしてどのくらいの人が聴いているのでしょうか。馬耳東風のようなものは、聴いたことには入らないとします。よそ事ばかり考えて、内容がちっとも心に入っていないのも、聴いたとは言えません。説教を大切にするある牧師は、説教を噛みしめて聴いている人は1割くらいではないか、と漏らしていました。2割いたら喜ばしい、くらいの計算でした。
 
けれども、礼拝が終われば、皆が生き生きし始めます。楽しいお喋りが始まります。授業後の休み時間と同じです。世間とは違い、そこそこ信頼できるような人がいる仲間です。安心してくつろいで話をすることができる、という心理があるのでしょうか。にこにこ楽しい気持ちで話ができる。ああ、だから教会は愛に満ちたところなのです――確かに、そのように安心できる居場所があるということについて、とやかく文句をつける必要はないのでしょう。
 
では、リーダーたる者が、部下のことを第一に考えている、という点はどうでしょうか。疲れている兵士たちにパンを与えてくれ、とギデオンは交渉しました。そのように、教会の指導者も、教会員のことを考えてお世話をすることになっています。「牧会」といいます。しかしそれは、雑用をすればよいのではないし、教会の代表者として何々会議に出れば箔が付く、などというものでもありません。
 
牧師、ないし説教者の一番大切な任務は何でしょうか。身の回りの世話をすることなのでしょうか。教会の代表者の顔で、真剣味のない会議に出回ればよいのでしょうか。いえ、教会員の魂の世話をすることが最大の使命でしょう。魂へ配慮するためには、命の言葉をもたらさなけばなりません。聖書の解説をすることではありません。聖書の解説を、教案誌をちょっと変えて話し、最後に「私たちもそのようにしましょう」で結ぶというような、くだらない話を毎週繰り返すようなことだけは、絶対にしてはいけません。説教を、そのようなものだと思わせていたら、信徒たちの魂は錆びます。神とのつながりを失います。つまり、救いを見失います。
 
神の言葉をもたらすこと。自分の語る言葉が、神の言葉であるということは、力があり、命がある、ということです。そのような、神の言葉を自分の説教に与えてください、とまず神に祈って求めるところから、牧会者の仕事が始まります。その使命感があるかどうか、それを牧師は自らに問わねばならないし、教会員も、それを牧師に問うのでなければならないと思うのです。そうでないと、神との関係がきっと悪化します。それは、一番怖いことなのです。
 

◆私にできること

もうひとつ、香油を注いだ女の話を読みました。女の非常識な行為は、「ある人々」から非難を轟々と浴びました。しかし、どんなに周囲から責められようと、彼女はイエスのためにそれを献げたということを知りました。教会で何かするにしても、一般社会の常識を外れてしまうことはできません。しかし、一般常識の範囲内にすべてが収まるわけでもないでしょう。イエスを愛することについては、その常識を外れていくことがありうるわけです。いつの間にか、教会の内部であっても、社会常識の範囲から一歩も出てはいけない、というような考え方が当たり前になっていないか、振り返る必要があると思います。
 
もちろんそれは、犯罪に手を染めることを推奨しているわけではありません。結局は金目当て財産を巻き上げるために神の名を用いる、そんなことを良しとしているのではありません。キリスト教会はこの社会では、ひとつの宗教法人です。社会的義務があります。その義務あってこその権利ですが、基本的な善悪を安易に逸脱することが認められる、などと言いたいのではないのです。
 
宗教法人としての役割があり、組織としての義務があるでしょう。何かしらその立場で対処すべきことがあるでしょう。しかし、その枠内に留まるだけで教会活動が完成しているように、勘違いをしていないか、考えてみなければなりません。イエスは、「律法にはこのように書いてあるが、しかし私は言う」、という形式でよく教えを語りました。それは表向きの法律ではなくて、聖書の神髄を覚れ、ということだったと思います。神が聖書を通じて私たちに求めていることには、私たち人間が定めた世の掟に留まらないことがあるでしょう。神を愛するが故に、私たちが通常なら考えないようなことができる。キリスト教の歴史は、それを実現してきたのではないでしょうか。
 
教会の交わりは、牧会者がいて、信徒がいる、その中に成り立っています。教団によっては、牧会者と信徒との関係を、建前上撤廃しているところもあります。そもそもプロテスタントでは一般に、それは「ない」ことになっているとも言えます。しかし、牧会者はそれなりに訓練を受け、一定の責任をもって群の先頭に立つことになります。そのための報酬を受けています。「神への献げ物」としての献金を、個人的にもらうことができるのが牧師です。ある意味で「神」とされさえもするようなものです
 
その牧師が語る言葉は、神の言葉となります。語る説教は、信仰の要であり、命を与えるものということになっています。これができない者が先頭に立つことはできません。そんな詐欺行為を許すとなると、信徒たちの信仰も歪んでしまいます。その信徒たちが、あの女に文句を言った周囲の者たちのように、信仰を貫く人を非難し、弾き出すような「常識」をもつようにもなりうるわけです。
 
そこから解放されなければなりません。むしろ、自分の中に、その人のような信仰が欠けていることを知らされたとして、自分の歩み方を改めていくようでありたいものです。いつしか縮こまった「敬虔な」クリスチャン像で喜んでしまうようなことのありがちな私たちです。互いに信仰に燃やされて、節度を保ちながらも、聖書にある熱意を研き合うような信仰へと高められていくようでありたい、そう思いませんか。
 
ここに、「私のできること」があります。説教を語る者の「私」、集まってそれを命の言葉として聴いて強められる側としての「私」、どちらにしても、「できること」があるのです。そのどちらもが出会う場として、教会があります。教会は、そのどちらの立場の人も属しており、その人たちから構成されています。そうしたそれぞれの「私」のできることが、何かしらあるわけです。つまり、教会としてできることが、何かあるのであり、それが見えてくるのではないでしょうか。そして、いまここから、教会として一歩踏み出して行くことを、私たちの意識の中で確認したいと思います。その一歩を、実践したいと思います。たとえ疲れていたとしても、神が助けてくださいます。祈りましょう。聖書の言葉を求めましょう。そうすると、力が臨んできます。いまこのときに、神が私の内へ、来てくださいます。
 
それが、教会の礼拝なのです。

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