残りの者
イザヤ10:20-23
アッシリアの政治的な駆け引きのようなものは、ここでは問わないことにします。ただ、神にとりこのアッシリアは、イスラエルを導くための一つの道具のように扱われていた、そういうイザヤの見解には注意し、そのアッシリアが滅亡する「その日」のことを今描こうとしている、という点ははっきりさせておく必要があろうかと思います。
イスラエルは帰還する。戻るべき地に戻ってくる。イスラエルの神、真実なる主の許に帰ってくる。但しそれは、イスラエルの「残りの者」だといいます。ヤコブの「残りの者」だとも丁寧に繰り返して、イスラエルの歴史が父祖ヤコブに基づくことを再確認しています。これはイスラエルの全歴史に関わる大きな事件であるということです。
たとえ海の砂の数ほどの民がイスラエルに属していたとしても、帰ってくるのは「残りの者」だけなのです。砂の数ほどの「クリスチャン」が今地上にいることに目を移します。この力ある神のところへ戻るのは、一握りの者たちでしかないなどとは信じたくないかもしれません。でも、私たちは安直なメッセージにいい気になってはいないでしょうか。
そのままでいいんだよ。ありのままのあなたを神は愛しているよ。教会に人を誘うにはなかなかよいメッセージだったかもしれません。宗教的な修行や厳しい戒律を掲げては人は寄ってきません。それを予感していた人々が、こうした誘い文句に、教会は意外と垣根が低いと感じ、入門しやすくなった事実があったのではないかと思われます。
でも、それが聖書だったのでしょうか。死ねば実を結ぶということ、新しく生まれなければ命がない、ということこそが、福音のメッセージであり、命を与える力となったのではなかったのでしょうか。もちろん、神の業は計り知れません。病床で苦しむ人、自己認識能力の乏しい人のところへは、ありのままで、という声も投げかけられようかと思います。
むしろ私は、そのような神の愛に満ちた救いの手に対しては、拍手を贈りたいと常々考えています。けれども、とお考え戴きたいのです。ここでも、「正義がみなぎる」とイザヤは語ります。定められた滅びが予告されています。そこでは神の正義が成就するのです。私たちの願望ではありません。ただそこに「残りの者」がいるのは確かなのです。