引き渡しはしない
ホセア11:8-11
どうしてあなたを引き渡すことができようか。もちろん反語です。イスラエルを、神は引き渡しはしない、と自らに誓っています。ツェボイムやアドマとは、どうやらソドムとゴモラの滅亡の時に巻き添えを食らった町のようです。悪に満ちた町は滅ぶことを印象づけます。それに比べると、イスラエルは全く別扱いになっているように見えます。
先に、愛の絆で導いていたのだ、とホセアは言いました。神がどんなにか愛し導いたか、ホセア自身も、妻の裏切りの後にそれを迎えるという痛みを負うことで、感じ入っていたのではないかと思われます。神の痛みを、自らほんの少しでも覚えてのこの言葉である、と理解してみましょう。人にそれは無理だ、と一蹴しないで。
どうして引き渡せるだろうか。否、引き渡せるはずがないではないか。ああ、それなのに、私たちはイエスを引き渡してしまいました。まさか自分がユダであるはずがない、そんな意味で私たちは構えていてよいのでしょうか。自分はユダほどのことはしない、と高を括っているばかりでよいのでしょうか。これは、信仰の姿勢が問われているということです。
主の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなっています。ホセアもまたそうなのでしょう。怒りを再び燃やすことはしない、と独り誓う神。そうまでさせた人間とは、いったい何者なのでしょう。私はそこから外れているなどと言えるのでしょうか。私の罪が、あの十字架への原因なのだ、と思うことすらない、そんな日常ではないでしょうか。
人ではなく神であるが故に、もう怒りを以て臨むことはしないのだ、と叫ぶホセアの目に、涙がいっぱい浮かんでいる姿を想像してしまうのですが、それは感傷的に過ぎるでしょうか。今、主は獅子のように吠えようとしています。その声を私たちはどう聞くべきでしょうか。その声に従う私たちでありたいと願います。
イスラエルの捕らわれた民は、エジプトから、アッシリアから、鳥のように飛んでくる。そう、民は、主の声を聞いたのです。捕らわれの地は、もはや主の民には似合いません。主が約束した地に、主が帰してくださいます。私たち現代の人間たちにも、主の手に導かれないというはずがありません。声が聞こえないはずがないのです。