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洗礼者ヨハネ

ルカ3:15-18 
 
洗礼者ヨハネがたとえいなかったとしても、イエスの働きはありえたように思われます。イエスのもたらす救いのために、このヨハネがどうしても必要であったようには見えないのです。そんな気がする人は、ほかにもいるのではないでしょうか。聖書が描いているからヨハネのことを取り上げるけれども、いなかったとしてもどうということはないのでは。
 
記事によると、ヨハネは、聖者の如くに知られていました。悔い改めのメッセージと、水での洗いによって、人は生まれ変わるべきだ。そして新しい人生を神の前に始めなさい。こうした教えは、人々の心を神に改めて向かわせたのだ、としています。イエスの教えを受け容れるための備えをしたのです。客観的には、そういうことなのでしょう。
 
この箇所では、民衆がヨハネこそメシアではないか、と期待していた背景が告げられています。でも、ヨハネ自身はそうではない、とのコメントを発しています。本物のメシアは、自分のような者ではない、もっと力ある方である、と告げています。そればかりか、聖霊が、人々の心を火のように燃やす、とも言っています。
 
ルカはもちろん、このイエスの死と復活後の半世紀を知っています。キリストの教えが、ある程度広く伝わっている事実を踏まえて書いています。人々は霊に燃え、主に仕えています。パウロにより益々拡がった新しいこの救いが、頼もしく思えたことでしょう。メシアは厳しい審きをもたらすという教えは、人々の心を捕らえたのではないでしょうか。
 
というのは、このローマ帝国の支配がいつか終わり、かつてのダビデ王のような逞しい王が現れてイスラエルを救うことを、人々は願っていたからです。そういう救い主メシアの待望があったことでしょう。ヨハネの当時はイスラエルの復興を待って、ルカの当時は再臨の終末を待って、救いの完成を神に求めていたのです。
 
ヨハネのもたらしたものは「福音」だとルカが書いています。イエスの救いではないけれども、福音なのです。パウロの理解した救いとも違います。ヨハネ自身は中核ではありませんが、人々の目を惹く先導者ではありました。さあ後ろをご覧あれ。そこに主役がいらっしゃる。それを指し示す先導者です。いま、私たちがヨハネなのではないでしょうか。

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