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一人ひとりへの問いかけ
イザヤ40:12-31
慰めよ、と始まるイザヤ書40章は、それまでのイザヤ書とは別の人物の手による文章だと言われている。暗い裁きの宣告が、急に明るくなる。回復の希望が与えられる。さあ良い知らせを伝えるのだ、と叫びます。しかし、続いて創造の神が現れるとき、まるで反語のような疑問が行列します。誰がこれをしたのか。答えはもちろん、主なる神です。
「あなたがたは知らないのか。聞かないのか」、否イスラエルはこれを確かに聞いていたのです。主の側としても、それは分かっています。知っているのです。但し、ここでイザヤと名のる者がこれを書いて発しているとき、いったいこれは、何人称だと言えるのでしょうか。イザヤが主を語る。主が語る言葉はイザヤの語りです。
さらにイザヤを名のる者がそうしているとなると、実に複雑です。一度この主体は「あなたがた」と、イスラエルへ向けて言いました。ばらばらになった捕囚の民イスラエルが、いま呼び起こされて、復興しようとしています。ヤコブよ、イスラエルよ、と呼びかけられつつ、次は「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか」と問われました。
このとき、「あなた」が単数になっています。ここで、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方」とは、単にイスラエルの民を導いただけの神ではない、ということを表しています。でも、民全体は、それをどこまで本気で受け止めていたのでしょうか。一人ひとりが「あなた」と呼びかけれなければ、いつまでも他人事にしか感じないのです。
一人ひとりが疲れています。そこへ新しい力を与えるのは、主を待ち望む信仰です。翼で舞い上がり、走る力に満たされる信仰です。映画「炎のランナー」で、エリック・リデルが、出場するはずの種目のある日曜日に、出場を替わってもらって、この箇所を開いて説教をしていた場面が、心に残っています。イギリス中を敵に回して、語っていたのです。