マルコ伝の「復活」
復活祭礼拝。確かに、復活ということが信じられないので、教会に行くのが憚られる、というケースはあるだろう。それは正に聖霊の領域である。システムやメカニズムをどうのこうのと言うことはできない。召されたある方のことを語りつつ、説教者は、この復活について、ひとつのことだけをはっきりと語った。復活は、世界ないし人生の見通しを変える、ということである。
イエスが、墓の中から復活した。愛だけの方を、人は寄ってたかっていじめ殺した。しかし、その暴力からも打ち勝って復活したのだ。このことへの信仰は、全人類へ与えられた光のもたらす業だった。信じた人々は、共同体をつくった。正確に言えば、神が彼らを共同体にした。これを「教会」という。教会は、この復活を毎週必ず思い起こすことになる。蘇ったその日曜日を、主の日として、礼拝の日と定めたからだ。このため、教会は、共同体として、復活の主を思い起こすのである。
この信仰の上に成り立つ教会は、そしてキリスト教信仰は、人生の見通しを一変することになる。悲惨な事態、不条理な出来事に瀕しても、その先にある希望まで捨て去ることはできない。主イエス・キリストが生きているからには、絶望する自由はないのだ。
ところで、開かれた箇所は、マルコ伝の16章である。これは、復活の記事としては曰く付きのものである。説教者は、その問題の基本を説明する。「結びの言葉」などとして、明らかに後世に付加された部分があること、しかもそれが複数あることなどを教えた。
私は、必ずしもオリジナルと仮想されたものだけに価値を置く者ではないが、付加が複数あるとなると、一旦切り離すことは必要であろうと考える。また、元来のマルコが構成したこと、想定したことを受け取るためには、マルコ自身によるのではない叙述は、できるだけ除いた方が望ましいというのも本当だろう。
そもそも、神のなさることを、人が説明し尽くすことなどできないであろう。説教者もまた、私と同様にそのような視点を以て、構えた。それは、教義や神学といったものを構築していく危険性から逃れるためでもあるように思う。
ソクラテスは、相手に質問を畳みかけ、自分の提案を肯定させ続けた。しかしそうすると、やがて相手の考えることとは逆方向に議論が進んでしまう。相手は、自分には知恵があると思いこんでいた思想を突き崩されてしまうことになる。
これが福音だ、これが救いだ。あまりにも定型に嵌め、一定の教義や神学を楼閣の如く築き上げると、神からのツッコミにより、一度に瓦解するかもしれない。説教は、そうした組織的な構築物をぶつけ、それを信じろ、と迫る場ではない。説教は、神の生きた言葉をもたらす。それは、数学の解答のような決まり切ったものを必要としない。その時その場で、そこにいた人が、聞かなければならなかった神の言葉を聞くのであればいい。思いついた説明を施す場ではない。むしろ、問いかけるのだ。そして、聞く者よ、想像せよ、と誘ってくる。
キリスト教説教は、過去の遺物を論ずるものではない。キリストはいまも生きている。というか、一度死んだにしても、つねに生きている。この「つねに」というのは、人間から見た時間基準に基づく。神の中には、私たちが思うような過去も未来もない。私たちがそのような枠の中に当てはめているだけである。だから、説教に於いて、私たちはただ主を見上げる。生きているキリストを見上げる。「主は今も生きておられる、この私と出会ってくださった、そして私をも追い求めてくださった」と説教者は続けた。
そのとき、このマルコ伝の復活の記述は、どのように受け取ることができるか。ここで、説教者は女たちに注目する。そして、イエスと弟子たちの旅をリアルに感じる話をもたらす。私がよく言うことだが、生活を支えていたのは女たちである。身の回りの世話をどのようにしていたか、昔の本は一切記述しない。だが、それがあってこそ、生活ができていたのだ。もちろん、パトロン的に、費用を賄うということも大切だが、もっと身の回りのことについては、この女たちが付き添って世話をしていたとしか考えられないのだ。
十字架を見届けたのは、何よりもこの女たちであった。男の弟子たちは散り散りに逃げ去ったが、女たちは見つめていたとわざわざ記されている。このようなリアルさは、あまりにマニアックに走るのもどうかとは思うが、あまりにも忘れてしまうのであってはならない、と私はいつも公言してきた。
説教者はまた、墓の中にいた「若者」に目を向けさせる。ルカは2人いたというが、マルコは1人だという。このことを「弟子たちとペトロ」に伝えよ、と命ずる。イエスは復活して、ここにはおられないのであるが、先にガリラヤへ行くから、そこに行けばイエスと会える、というように伝えよ、というのである。女たちはひどく驚き、逃げ去った。「正気を失っていた」とまで書かれている。
女たちはたぶん、イエスの遺体を香油などを用いて清拭し、きよめたいと思っていたのだろう。ところがイエスの遺体がそこにはなく、しかも復活した、などと聞く。かつてイエスが殺されて蘇るということを言っていたことを、聞いていなかったとは思えないのだが、もし聞いていなかったなら尚更、これは青天の霹靂といったところであっただろう。
こうした描写に触れながら、説教者はここで、作家の井上ひさしについて語り始める。この4月で、亡くなって14年が経つ。山形に生まれ、児童期にカトリックの洗礼を受けたが、その信仰は後々まで続いたのではなかったらしい。門外漢には、やはり『吉里吉里人』の人だという目で見られるかもしれないが、元々『ひょっこりひょうたん島』で有名になった人だといえる。
生活苦のために孤児院に預けられたひさしが、「アイスクリーム」に憧れた逸話だった。それは何だろう、とずっと考えていたが、あるとき本当にそれを味わう機会があった。このとき、ただの言葉とその正体とがひとつとなる体験をもったという。これぞ生きるということなのだ、と幸福感を覚えたというのだ。
ただの「名」と、それの「正体」とが重なったときに、幸福がある。この指摘は興味深い。それは神の「言葉」の重要な意味である。「光あれ」との言葉が、そのまま光の存在となる。昔は「真理」概念は、思惟と存在の一致、あるいは認識と対象の一致、というところに捉えられた。神においては、言葉と現実が一致する、そこに真理がある、とも見なされたわけである。
説教者はこうした概念に踏み込むことなく、多くの人に分かりやすい言葉を選びつつ、こうしたことを説いてゆく。人間にはこれができない。口先だけで愛することを言うが、実際に愛することそのものであることはできない。愛という言葉と存在とが一致した姿として、イエス・キリストを、この復活祭においてまた見上げようではないか。
私たちの信仰の言葉も、そうである。さしあたり、その信仰の言葉は、人間世界では言葉のままである。だが、神の側では、それが神の言葉である限り、つねにすでに現実存在である。人間の目には隠されていたとしても、神の国においてはもうそれは確かに存在している。この図式の中にどっぷりと浸かる形で、私たちの礼拝が成り立っているのである。
マルコ伝に戻ろう。女たちがひどく驚き、逃げ去ったこと、正気を失い、誰にも言わなかった、とまで書かれている。女たちが事態を怖れたのも尤もである。と共に、神を畏れるという信仰姿勢についても、連想が働いた。日本語では、同訓異字の場合、元来なにかしらつながる概念があって、それが分化して別々の漢字を充てたというのが基本である。「畏れる」ことと「怖れる」こととには、当然つながりがある。ここで「震え上がった」というのは、必ずしも「畏れ」とは重ならないであろうと思われるが、私はここに「畏れ」の背景をどうしても押さえておきたいと思う。女たちは不信仰だったのではないからだ。
「だれにも何も言わなかった」のであれば、この事件はどのようにして伝えられたのだ、と疑問を呈する人がいる。聖書の矛盾を突いたつもりなのか、聖書には誤りがあることの証明をしたいのか、よく分からないが、それは的を外していると私は考える。それは、女たちが語った故に、読者が、私が、あなたが、信じたことになるという事態を禁じたのであるに違いない。
そのためには、説教者が最後に展開した出会いの読み方を確認しておかなければならない。もちろん、これはよく言われることである。聖書に懐疑的な学者でも、好んで持ち出す解釈である。マルコ伝が、復活をリアリティを以て説明するのではなく、ぷつんと不自然な終わり方をしていること(説教者はそのことについて、なんとなくの印象で知らせるのではなくて、文末の"gar"という語について説明したのは非常に良かった)について、それは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という終わり方によって、読者が、私が、あなたが、もう一度マルコ伝を最初から読むこと、そしてガリラヤから再び読み直して、この復活のイエスと出会うことが望まれているのだ、という解釈である。
読者は、この福音書の場面に参与する。それが、福音書という史上初の独特の文学形式における、偉大な意義だとしてよい。これを、復活の出来事を記念するためにイースターを覚えるのだ、などとトンチンカンな説明をするような説教者がいたとしたら、直ちに幻滅しなければならない。どうぞいつまでも、聖書の世界の外側から、神の国を指をくわえて観覧していたらよいだろう。
そうではない。私たちは、この福音書の中に招かれている。だから、ガリラヤへ行けばいい、という誘いに対して、私たちは決意を示さなければならない。時に、この「ガリラヤ」というのは、私自身の信仰の原点のように見なすことがある。それも意味があるだろう。初心に返れ、とはまた少し違うが、神と出会った信仰のスタートを思い起こすこともまた、大切な振り返りである。
それよりも、文字通りのガリラヤに帰ることを、ここではまず命じているものと受け止めたい。つまりは、もう一度物語を読みなおせ、ということである。私もよくそのことを言っている。そして説教者はそのことを、確かに自分自身が体験したこととして語っていることが伝わってくるから、私はわくわくしながら、間もなく結ばれるであろうこの説教の着地点について思いを馳せていた。
すると、私の心の中で浮かんでいた言葉が、説教者の口から零れてきたので、私は目を見開いた。説教者は言った。「これは映画であり、文学である、という人がいます。いま私たちが言うところの『伏線回収』というようなものです。」
これは特に最近私が漏らしていることである。先日もそれを味わった。「BLUE GIANT」という映画を以前観たが、アマプラでそれが見られることが分かり、先日家で観た。すると、最初の時には気づかなかった「伏線」が、いろいろ鏤められていることに気がついたのだった。また映画「駒田蒸留所へようこそ」を、訳あって二度観たが、これも、二度目にはいろいろ細かな点に気づくのだった。
福音書もそうである。最後まで一度駆け抜ける。だが、そこを経て最初に戻り再び読み直すと、細かなことに気づくようになるのだ。それは、結末を知っているから面白くない、ということはない。そばにいるときには分からなかったが、その人がいなくなって初めて、その人のしてくれたことがしみじみ分かる、というような体験に似ている。イエスの復活という行き着くべきところの寸前にまで旅してきた者が、改めてイエスの「福音の初め」に戻り、そこから歩み直すとき、イエスのしてきたこと、イエスの言葉、そうしたものの細かなところが輝いて見えて仕方がなくなるのだ。
そのとき、なんとなく言葉だけで通り過ぎてきたようなことが、ずっしりとした重みを以て、感じられるようになるかもしれない。映画好きな人は何十回でも観るという。映画の言葉や場面を、自分が生きるようになることも不可能ではないであろう。言葉が、存在となる体験も、得られるかもしれない。神の言葉は、そのものが出来事となるものなのであるだろうが、この貧しい私の身を以てであっても、現実になることがあるかもしれない。神の出来事は、復活の信仰からこの場に一度戻ることで、命注がれ、輝く現れ方をすることが希望できるのである。
女たちは、だれにも何も言わなかった。女たちが何かを言うのを聞くのではない。女たちが言わなかったことを、私がいまここで言えばいいのである。それが、必要なことであり、望まれていることである。マルコ伝は、こうして私の身の上で、復活を証言させようとしていたのである。