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ひとりじゃない (ハガイ1:12-15, ヨハネ14:18-19)

◆孤独感

孤独感は、現代社会でのひとつの大きな問題だと言われます。心許せる人間関係の難しさや、パートナーを得ることへのためらいなどもそうです。が、しばしばこのようなことが言われます。群衆の中にいると、却って孤独を強く感じる、と。沢山の人が見える範囲にいるのに、その誰ともつながっていない。賑やかさに囲まれているが故に、よけい孤独を感じるというのです。
 
「みんなでひきこもりラジオ」という放送があるのをご存じでしょうか。当初は不定期放送でしたが、2022年から、月に一度の定期放送となりました。いまはその語りの様子を、テレビでも、少し遅れてですが放映しています。
 
「みんなで」ひきこもるという、少しパラドキシカルなタイトルを見せながら、やはりそこに「みんなで」と掲げることで、リスナーの関係性や願いを暗示するような気もします。当事者がどのくらい共感しているか私は知りませんが、たくさんの支持者がいるからこそ、放送が続いているのだろうと思います。
 
つながりたいけれども、つながれない。そんな孤独を覚える人、それが身体的な病態となって現れて悩む、ということもあるのだと思われます。外へ出られない、人と会うのが怖い。分からなくもありません。以前なら、人前に出るのが恥ずかしい「赤面症」というのがよく言われていましたが、近年これが殆ど見当たらないのだといいます。人前にさえ出ず、むしろひきこもる行動が通例となり、ひきこもることを認める動きも現れてきたことが関係しているかもしれません。
 
国語の教材で、小学生の物語を読みました。すべてご紹介するわけにはゆかませんが、その女の子は、やがて転校することが決まっています。仲良しの友だちにも言えない様子です。それは、「友情は永遠だよ」などというおセンチが嫌いだからです。いまもし盛り上がって期待していても、新しい環境でそれぞれ新しい生活を始め、忘れてしまうに決まっていることが、その子には読めているのです。友情を誓うことなど、信じないほうが、自分が傷つかない、と思っているのでした。それが、あることをきっかけにして、その心向きが少し変わります。友だちが転校のことをついに知ります。卒業記念のために特別な給食がありました。またとないようなデザートがメニューでした。その特別なデザートを、友だちがその子にくれと頼みます。なんでまた……。友だちは言うのでした。来年返すから、返しに届けるから、と。もちろんそれは、また必ず会いに来るという行動のための約束でした。口先だけではない約束でした。
 
ひきこもる人について、悪口を言いたくなる人がいるかもしれません。でも、この少女のように、人を信じて傷つくのが怖いから踏み出せない、という気持ちがどこかにあるのだとしたら、それはやはり心の底では、人を信じたい、という思いがあるからではないでしょうか。信じているからこそ、傷つくことを恐れている、という面もあると思うのです。人を信じたい、という気持ちがベースにあるからこそ、ひきこもってしまう、そういう人も少なくないのではないでしょうか。
 

◆聖書箇所

ヨハネによる福音書で、イエスは間もなく自分が十字架に架かることを覚ったとき、弟子たちから離れて行くことを予見し、長く遺言のように語り続ける場面があります。その中で、弟子たちを孤独にすることはない、と約束するところを挙げます。14章です。
 
18:私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19:しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
 
そのような場面として、マタイによる福音書を思い起こす方もいらっしゃるでしょう。復活のイエスが弟子たちの前から姿を消す、福音書の28章、最後の場面です。
 
19:だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
20:あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
こうして、「いつもあなたがたと共にいる」という言葉が、福音書を読み終わった人の心の中にリフレインして、余韻を残します。信じる者が福音書を聞いて、あるいは読み終わって、「共にいる」というメッセージを胸に懐いて、立ち上がることができます。私たちもまた、そうありたいものです。
 
でも、今日はそれで終わりにはしません。神がこのように、幾度か人間と約束をし、慰めを与えています。約束というのは、「契約」のことです。契約は、しばしば神から一方的に押しつけてくる約束事のようにも思えます。互いの利のためというよりも、神が勝手に約束をして、契約とするわけです。それは、親が子に対して「約束だぞ」と圧迫するようなものにも見えるわけです。
 
しかし、神からの約束をそのように理不尽なものとして受け止める必要はない、というのが聖書のスタンスでしょう。神と人とを対峙させて、神に対して文句を言うという発想そのものに問題があるのです。聖書の世界は、そのような意識を決して有していません。預言者エレミヤが、やけになったかのように神に噛みつく場面がないわけではないのですが、それはよほど特殊な場合としてよろしいかと思います。
 
神の側から、必ず戻ってくるという約束や、いつも共にいるという約束を与えたことは、一方的であろうがどうあろうが、人間にとっては嬉しいことではないのでしょうか。同様に、神がイスラエルの民と共にいるという宣言を、ハガイ書1章から見てみましょう。
 
12:シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者は皆、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、ハガイの言葉を通して、彼らの神、主の声に耳を傾けた。民は主の前に恐れた。
13:主の使者ハガイは、主に託された言葉を民に告げた。「私はあなたがたと共にいる――主の仰せ。」
14:主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い起こされたので、彼らは行って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。
15:それは第六の月の二十四日のことであった。
 
詳述は避けますが、バビロン捕囚からの帰還組が、なんとかエルサレム神殿を再建しようとしているところです。祭司エズラが、人々の精神的な支柱となりました。エズラの過激な政策が民族主義を先鋭化したともいえます。しかし、それがあったからこそ、イスラエル民族が再興することができたであろうことも、本当でありましょう。
 
ハガイは預言者として、この神殿建設を後押しします。主が共にいる。ハガイは霊的な動きを重視しています。次の章にもありました。
 
あなたがたがエジプトを出たときに/私があなたがたと結んだ契約によって/私の霊はあなたがたの中にとどまっている。/恐れてはならない。(ハガイ2:5)
 
ひとの魂を震わせて、行動を起こさせます。神殿の再建が、勇気を以て始まることとなりました。
 

◆どこか感傷的

神は私たちと共にいる。信仰をもつ人は、しばしばそれを感ることと思います。祈り願ったことが叶えられたから、神がいてくれた、その程度のものではありません。苦しいときにこそ、神が共にいます。時には、そのことに当時は気づかないなことさえあるといいます。クリスチャンなら誰でも知るといわれるあの有名な詩を、ひとつの邦訳でお届けしましょう。
 
「あしあと」(Footprints)

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
 
苦しい時、その時には気づかなかった。ただ、後から神に教えられた。おまえが本当に苦しいとき、私がおまえを背負っていたではないか、と。それは大きな真理です。ただ、ロマンチックな雰囲気を愛しているばかりでいることはできません。
 
たとえば東日本大震災のとき、人々が津波に呑まれていったことを、私たちは思い起こします。あのとき、神は何もしなかった、と思った人もいたことでしょう。でも、そうじゃない、と言うひとがいます。だって、あのとき神もまた、人々と共にいたのだ、人々と一緒に流されていたのだ、と説くのです。それを聞くと、またじんとくるクリスチャンもいることでしょう。
 

◆現実を変えない神

歌手というよりも、いまは俳優と呼んだほうがよいかもしれません。吉川晃司さんが話していたエピソードがあります。震災の前年公開の映画で、彼は「仮面ライダースカル」を演じていました。
 
吉川さんは、東北の子どもたちを慰めに走ります。そして、自分は仮面ライダーをしていたことをドラマチックに持ち出そうとして、まず、仮面ライダーは好きか、と子どもたちに訊いたのだそうです。しかし子どもたちは、「嫌いだ」という声が返ってきたといいます。どうしてお父さんを助けに来てくれなかったのだ、とぶつけられたのです。
 
吉川晃司さんは、ここで自分の無力感を覚え、人生観が変わった、とまで言いました。そう、励ましたいという気持ちに嘘はなかったのですが、実際に助けられなかったのは事実です。軽々しく理想めいたことを考えていても、悲しんでいる子どもたちにとっては、重い現実に潰されそうになっていたのでした。むしろ、ヒーローなんだなどと言われたら、どうして助けてくれなかったのか、より絶望的になったのかもしれません。いえ、このように私が説明しようとするそのことが、いっそう追い詰めるものとなってしまうことでしょう。
 
吉川晃司さんはそこから思い立ち、チャリティーライブを始めることにしました。生きている人たちにとり、さしあたり必要なのが生活資金だと思ったからでした。
 
人間は、共にいるなどと口で言うことは簡単でも、本当にずっと共にいることはできません。ではそれができるのは誰か。聖書はその答えとして、イエスが共にいてくれる、神が共にいてくれる、というメッセージをもたらしてくれているように見えます。
 
その点を強調した人として、遠藤周作を思い出します。カトリックの作家ですが、いまどきはたっぷり説明しなければ分かって戴けないような人物となったような気もします。遠藤は、父なる神という概念に待ったをかけ、母性をそこに見出しました。マリア信仰と関わりがあるのかどうかは知りません。イエスは奇蹟を華々しく演じたのではなく、無力でただ病者のそばにいた、というイエス観を公表しました。カトリック教会で禁書扱いにされるようなこともあったというのですが、遠藤は、聖書はそのように書いてあるからそのように読むのが正しいのだ、と豪語したわけではないと思います。その人の感じ方や受け止め方について、他人がとやかく口を挟むものではないように私は思います。もちろん、何のためらいもなしに人間の言うことを無闇に信奉してしまうのは、危険なことに違いないのですが。
 
神が共にいる。それは人間的に見れば、一種の同情であり、共感というものだと理解することも可能でしょう。けれども、それではもったいないと私は思います。神を理屈で説明するのはもったいないのです。共にいてくださること、落胆した者に力を注いでくださること、そしてこの私に、エネルギッシュに働いていてくださること。もっとそれを表に出してよいのではないかと思います。それが、私の「証し」となるのです。
 
確かに、仮面ライダーは助けてくれませんでした。遠藤の神も、劇的に助けたという派手なパフォーマンスとは無縁でした。この世の悲惨や災いを見るにつけ、私たちは、神はどうして、と問いたくもなります。しかしまた、それをなんらかの形で「説明」して安心したがる人もいます。神がこれこれだからだよ、などと。自分本位で最もらしい安易な説明をすることほど、聖書を読む上で害になることはありません。ネット空間には、そうした思い違いをしている例が多々見られます。リテラシーを働かせる必要があります。
 

◆見つめていること

おとなというものは、なんでも「説明」したがるものです。私自身、子どものころに思いました。それが今度は親になって、自分の息子の口から聞くと、親ってそうなんだ、と思わされました。子どもがやーやー言うと、「眠いんだね」と親は「説明」するのです。確かに眠い一面がないとも限らないのですが、子どもにしてみれば、それは時にただの決めつけとなります。子どもの思いを理解しようとするのではなく、ただ眠いからやーやー言っているのだという「説明」で、自体を解決しようとしているわけです。
 
子どもからすれば、自分を見ていてほしかったのです。自分のことを、理解しようとしてほしかった。親の心が「説明」によって安心し満足することを目指すのではなくて、子ども自身を分かってほしかったのです。仮面ライダーだと言って励まそうとしたスターにしても、自分が子どもたちの心を見ていたのではなかったことに気づかされて、人生の見方が大いに変えられたのでした。抽象的に、神が苦しみを背負うとか、一緒に流されるとか、そうした「説明」で神の愛を済ませようとすることが、事態の当事者を見ていたかというと、私は怪しいと思います。神が共にいるということは、共にいてくれたのだ、という実感を抱いた人の思いは別として、周りの人間が当事者に対して軽々しく言うべきことではない、と思うのです。
 
イエスはたぶんご存じです。ひとはパンだけで生きるのではない、と言いながら、パンも必要だということをちゃんと伝えています。東日本大震災の被災者家族には、現金も必要でした。それがなければ、生き残った人々でさえ、生き続けていられなくなる虞がありました。イエスは実際に食べ物がなくて困った四千人あふるいは五千人の人々に対して、パンを配りました。そこにいた人に必要なものを、しっかりと見ていたのです。
 

◆天使様

ここで少しマニアックな例を出します。心に残った言葉があるのです。「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」(2023)という、今風のアニメがあります。高嶺の花の可愛い女の子が、目立たない男の子やダメタイプの男の子を好きになる、という、男にとり夢のような展開のストーリーが最近多いのもどうかしら、とは思うのですが、こちらも正にそうでした。
 
「天使様」と称されるまひるは、美人で可愛くて、料理も巧いし勉強は常に学年1位の高校一年生。それぞれの事情で一人暮らしをしているあまねと、実は隣同士でした。マンションのようなところに一人暮らしの高校生など、生活の苦労をまるで感じさせない設定も、最近の物語には当たり前となってきましたが、いまはそのことをとやかくは言わないでおきましょう。
 
ちょっとした助け合いをするようになり、二人の助け合う生活が始まります。恋愛感情は最初はありません。あまね君は自分に自信がなく、ちょっとクールに突き放すので、まひるも信頼しています。ただ、まひるの独り暮らしの背景には、もう少し重い理由がありました。両親に愛されていなかったからです。両親は、まひるがいるために離婚もできません。それで大学を出て独り立ちするまで待っています。そこまでは子どもに責任をもとう、と。まひるは独り立ちできるように、勉強でも何でも学校でトップを維持します。
 
勉強への没頭は、心の中の寂しさを紛らわすためのものでもありました。あまねはそのことを知って、心が揺れ動きます。すでにあまねも好意をもつようになっていたのでした。けれども、これまでと同様の距離感を保たなければならない、と自分に言い聞かせ、さらに自分の心に臆病になっていきます。ただ、まひるを励ますためにも、まひるを支えるためにずっと見つめているから心配するな、とは告げていました。
 
あるとき、その心の一線を超えるときがきます。まひるがこう言うのです。
 
わたしはいい子として、みんなに好まれるような「天使様」として振舞っています。けど、最近は、「もういいかな」とも思い始めたのですよ。――べつに、いい子でなくてもいいかな、って。わたしを見つけて、ちゃんと見てくれるひとがいるなら、わたしはわたしでいていいんだな、って。――あまねくんは、わたしから目を離さないでいてくれるのでしょう?
 

◆ひとりじゃないから

イエスは、あなたを見つけたのではありませんか。ちゃんとあなたを見つめているではありませんか。あなたから、目を離さないでいてくれるのではありませんか。そのことに気づいたときから、もうあなたは孤独ではありません。群衆の中で、ふっと感じる孤独感のような現象すら、イエスとあなたのつながりの中では、すでに遠ざかっているに違いありません。あなたは、ひとりじゃない。ここから先、ずっと、もうひとりにはさせない。イエスが聖書の中から語りかけてくる言葉は、そのような響きで重なって聞こえてこないでしょうか。
 
13:主の使者ハガイは、主に託された言葉を民に告げた。「私はあなたがたと共にいる――主の仰せ。」
14:主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い起こされたので、彼らは行って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。
 
旧約の時代でも、預言者を通して、主は「あなたがたと共にいる」というメッセージを伝え続けてきました。ハガイはエルサレム神殿を再建しようとするために、人々の魂を生き返らせるためのメッセージを送ります。
 
主に献げものをするための神殿。主に祈るための神殿。そこで人は主と出会い、主から慰めを受けます。もう二度と主に背を向けて捕囚の憂き目に遭うようなことにはならない、と誓いを立てたユダヤ民族に向けて、主が共にいる、という力強い知らせを告げます。
 
バビロニア帝国の軍隊に、徹底的に破壊されたエルサレム神殿でした。あなたの神殿も、破壊されていたかもしれません。祈りのための祭壇が壊れていたかもしれません。あるいはそこまでいかなくても、壊れかけた祈りの祭壇があったとしても、それをいま新たに築き直すことができるはずです。祭壇を、そして神殿を再建して、主にそこにいて戴く場をもちましょう。あなたの心の中に、主が共にいてくださるように、主の住まいを準備しましょう。さあ、いますぐに、取りかかりましょう。
 
あなたを見つめるイエスがいますから。あなたは、ひとりではありませんから。

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