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分断と十字架

ちょっとした流行語である。「分断」という言葉が飛び交っている。誰それの考えは「分断」をもたらす。このように相手について指摘することで、議論でマウントをとることができるような空気さえある。
 
ドキュメント番組では、特にアメリカの「分断」が取り上げられている。移民問題もあるだろうし、黒人差別もなくなっているのかどうかは怪しい。いまなお「分断」があることは押さえておくべきだろうと思われる。尤も、二大政党制の下では、分かりやすい対立を以て議論を展開しようという方向になるため、そもそも「分断」は大前提となっている、と言ってもよいだろうから、いまここで話題にしている「分断」とは、意味が異なるのではないかとも思う。
 
そして日本でも「分断」する気なのか、と相手を攻撃するような、議論にもならない論破みたいなものがよく出てくる。マスコミも、そうした「分断」を呷っている気配が漂う。なんだか、それは下手な陰謀論みたいに、誰かを悪者にして、自分を正義のように見せよう、という策略ではないか、とさえ思える。
 
ひとつ考えてみよう。相手を攻撃するときの論者の言い分は、相手のような考えでは「分断」を誘うではないか、というような方向である。そこの、揚げ足をとるのだ。しかし、そもそも最初から「分断」していたというのが実情ではないだろうか。相手の案で初めて「分断」ができるのではなくて、最初から「分断」があり、相手はその疵を塞ごうとしたが、完全にはできなかった、という程度ではないか、と思われるふしがあるのだ。
 
「分断」はともかくとして、私たちは相対的な評価に騙されやすい。思い切り単純な例示を試みよう。テストの点数である。ここにいま、二人の生徒がいて、どちらも百点満点の50点という成績だ。しかしAのほうは、いつも100点をとるのが当たり前ような生徒である。対してBは、0点も珍しくないような生徒である。確かに二人とも成績は50点である。成績評価は変わることがない。しかし、Aの50点はマイナスの極みであろう。逆にBの50点は、躍進である。
 
そう言えば、コップ半分の酒を与えて、「たった半分かよ」とぼやくのか、それとも「半分もある」と喜ぶのか、その辺りの心理テストのようなものもあった。そこに人生の知恵を見出す、という逸話もありきたりである。いま挙げた50点も、要するにそういうことだ。
 
相手の案は改善された50点であるが、論破したがる者は、おまえは半分とれていない、と攻撃する。おまえは満点ではないから欠陥がある、と言うのだ。むしろ自分の中に謙虚というものをもっている者は、この足りない部分を指摘されると、弱気にすらなるだろう。「それは個人的な意見ですね」と言われたくらいでたじたじとなるのは、他人の気持ちがよく分かる、心優しい人物なのだ。
 
おまえの考えはやっぱり「分断」するものではないか。そのように攻撃した者は、マウントを取り、議論に強いような見かけを宣伝する。冗談じゃない。そのように自分の勝ちだけを顕示したくて相手の非を責めることをこそ、悪意の「分断」と言うのだ。
 
古代ギリシアでソフィストという頭の良いグループは、ソクラテスの登場により、ずいぶん悪役の代名詞のようになってしまった。舌先三寸で相手を負かすことを目的とする論場の空しさを指摘するのが、哲学だった。
 
また、福音書の登場によって、律法学者やファリサイ派の人々は、同じように福音の側カラすると、すっかり悪役にされてしまった。真面目に神の掟を守ろうと努めた人々だったのだが、キリスト教会は、ファリサイ派と言えば悪の権化のように見せしめにして語る。私たちはファリサイ派ではありません、よかったですね、とでも言うように。
 
まるで、イエスを十字架につけたのと、同じような精神ではないのか。自らを優位とする前提で以て、論敵を虐げることについては、新約聖書そのものがたいそう戒めていたのではないのだろうか。
 
自分の方から相手との間に線を引いて分断し、自分は優位だと自画自賛する。そういった態度こそが、イエスが敵として闘った人間の醜さであるに違いない。クリスチャンと自称していても、簡単にそうなってしまうことができる。ファリサイ派の人々もまた、自分では精一杯善いことをしていたつもりなのだ。
 
ファリサイという言葉は、自らを聖なるものとして「分離」するという意味であったという。まことに、よくしたものである。現代にも、そこかしこにファリサイ派はいるように思えて仕方がない。私はいつも、自分がそうでないか、と見張っている。否、自分こそそれなのだ、ということを痛感しながら、日々を生かされている。これだけは、忘れたくないし、忘れることができない、と思っている。十字架のイエスが、目の前に見えるからだ。
 
なお、ユダヤ文化で徹底しているように、神と人とはきっぱりと分断されている。優れた人間を「神」と呼んだり、人は死ねば「神」になる、というような考え方が普通の日本の風土とは全く違う。「神」という訳語自体が、適切ではなかった、とも言われる所以である。神と人とは、超えられない一線を画しているのが聖書の世界だ。だが、それは分断されたままではなかったとして、間をつなぐのが、キリストという存在であった。そこに「和解」が成立したが、そのために神はどえらい犠牲を払った。そこに、新約聖書のエッセンスがあるわけだ。それが、十字架のイエスなのである。

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