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気づきのあったヨブはこのとき

ヨブ9:1-12 
 
神を忘れる者、神を敬わない者であってはならない。完全な者であれ。シュア人ビルダドが言ったことに対して、ヨブが反論します。人は神に対して正しくあることはできない。神と争うことなどできないだろう。神の知恵に刃向かうつもりは自分にはないし、神の力に抵抗することを考えはしない。ヨブの言い分はこの後もしばらく続きます。
 
そして、人の思う正しさなど、神の前には何の意味もないんだ、と塞ぎ込むような言い方すら始めます。不条理に悲惨な目に遭って、生きる気力すらなくしてしまいそうになっています。けれども、神の業にいまいちど思いを馳せます。このひとときが尊いものです。自分が、自分が、と人が言い張る姿は、実に醜いものだからです。
 
すっかり神という存在を忘れたとき、そうなってしまいます。あるいは、そもそも神を知らないからこそ、そうなのかもしれません。他方、このときのヨブのように、意気消沈してしまうことも、神は本来望んでいないことでしょう。傲慢な生徒も、教師にとっては嫌なものですが、逆に卑屈な生徒も接し難く、指導しにくいものです。
 
神の力はなんと大きいことか。ヨブは、神の絶大な力に目を向けます。これは結果的に、ヨブを最終的に黙らせることになった、神の最後のダメ出しにも似た内容となっています。ヨブとて、このことに気づいていないわけではなかったと思います。山を、地を、太陽を、星を、神は創造し、さらにその継続において支配しているではありませんか。
 
星座は、ギリシア文化においてすでに完成した知識であったとしても、旧約聖書においてまで「大熊座、オリオン座、プレアデス」までが記述されています。プレアデスというのは昴のことであり、肉眼で見える六つの星が統べられているように見えます。「南の星座」とは何でしょうか。見えない空にも星々があることを知っていたのでしょうか。
 
神は偉大すぎて、人はその姿を、もちろん全貌を、認識することはできません。神の意志が何かを決定して実行しても、人はその結果に抗うことはできません。ヨブは、打ちひしがれた中で気づきました。このときヨブが、財産も子どもたちも失い、健康も、そして妻と友人の心も失っていたということに、思いを添えたいものです。

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