義妹生活
4月を年度初めとする習慣の中で、10月はそれから半年ということで、テレビ番組も新しいクールに入る。最近はドラマもアニメも、三か月が1クールとなって、12話程度で終わるものが大半だ。昔のアニメや特撮ものは、短くても半年はあったし、二年くらい続くものも少なくなかった。特にセル画を遣うアニメーションは、大変な労働だっただろうと思う。いまのCGスタイルでも、過剰労働が指摘されているのだが、手塚治虫さんが日本でのアニメーションを確立させた頃苦労は、計り知れない。
9月までのクールは、私にとり、アニメが豊作だった。その背景に、気軽に視聴できるようになったからこそ、いろいろ見られた、ということがある。アマプラで、福岡で放送されないものも見られる、というのもあるし、NHKプラスを利用するようになって、どちらにしてもパソコンの画面で流すことができるようになったからである。テレビの前でじっと見るだけでなく、パソコン作業をしながら視聴できるというのは、私にとり大きい。ちょっと気になるものも、軽い作業の横で流すようになったのだ。
「まんが」と呼ばれていた頃は夜のゴールデンタイムで、お子さま対象だったものを、近年「アニメ」と呼ばれるものはずいぶん大人向けになったせいもあるのか、深夜放送ばかりである。録画して見るにしても、何かの事情で放送時刻が変更になると、録画できなくなる、ということもあった。いまのレコーダーは優れている。時間変更に対応し、ちゃんとずらして録画してくれるのだ。しかも同時に2番組重なっても、どちらも録画できる。便利な時代になったものだ。が、それに輪をかけて、いまはオンデマンドだ。有り難いことずくめである。
大人向けの深夜ものになると、かなり残酷な場面が取り込まれることがある。アメリカ辺りだとアウトではないか、とも心配するのだが、日本ではまだ暴力シーンの規制はそんなにないようだ。私は暴力的なものは好きではない。そういうのを全く避けるとまでは言えないが、血生臭いシーンは、せいぜい音を聞くだけにするということが多い。但し、「はたらく細胞」についてだけは、どうしても血生臭いとは思えないので、勝手な感覚ではある。
暴力といえば、正義の暴力というものがある。要するに、正義の味方も、暴力で敵を罰するのである。視聴者は、正義の側に立つから、暴力で悪なる敵を駆逐することが爽快に感じられるのだろう。何か指摘されても、それは自衛のためだから構わないのだ、という理屈で返す。まるで、どこかの政治的な話のようだ。否、それは一人ひとりの心の中にある、大問題である、と私は睨んでいる。決して軽い問題ではない。
他方、私が好むのは、「こころ」が描かれる作品である。人の「こころ」について考えさせる、あるいは他人であれ自分であれ、「こころ」と真摯に向き合い考えるのがテーマであるようなものは、好きだ。どんなに地味であってもいい。
今回観ていて心を動かされたのは、「義妹生活」である。ラノベの部類なのだろうが、アニメとして製作されたものには、「こころ」がよく描かれていた。高校生の男女が、それぞれの親の再婚により同居するようになる。ドキドキする設定であるが、最初から男の子は、世間が妄想するようなものではない、と断っていた。互いにできるだけ干渉しない形で生活してゆくが、それぞれに「こころ」の問題を抱えていた。実際の生活の中での「すりあわせ」が、やがて「こころ」の「すりあわせ」になってゆく。
最終回の後半は圧巻だった。そして、まるで映画のような終わり方をした。確かに、これは映画だったのだ。当初は男の子がメインであったように見えたが、いつしか女の子がメインとなった。だからタイトルが、「義妹としての生活」のことなのだろう、というふうに私には見えた。中程にも山場があり、女の子が日記に「こころ」を綴るのを止めてしまう。そこから、二人の心が揺れて近づく。男の子の心理については、少し不可解なところがないわけではないが、視聴者が望むような方向に動くことで、好感度を増したのではないかと思われる。
アニメのラストシーンとしては、「やがて君になる」が私の中で最高なのだが、これも決して劣らない印象的なものとなった。「こころ」を描く作品に、これからも出会いたいものだ。