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沈黙の中で

詩編62:8-13 
 
「私の魂はただ神に向かって沈黙する」と始まる第62編の詩は、人を陥れる者を前にして、頼りになると思います。救いが神にのみあることは、もちろん初めから分かっているはずです。そう告白しています。しかし私たちは、実際の問題の場面で、それを忘れがちです。目の前の現象にすっかり心を奪われて、うろたえないように、頼りとしましょう。
 
詩人ダビデが、「どのような時にも神に信頼せよ」と差し向けるのは、民に対してです。自分に対してではありません。イスラエルの王として、民を一つのまとめるにあたり、主への信仰は大いなる力となっていたことでしょう。「神は我らの逃れ場」だと説きます。情況がよくないときにも、そこには逃れる場所がある。そこに隠れる懐がある。
 
さあ、この王を見て拝め。国民にダビデは迫ります。諸々の帝国とは明らかに一線を画しています。ダビデは、人や神々の像を拝ませようとすることがありません。このダビデの信仰の真実に、民も従ったと言えるでしょう。私たちはともに、この神の前に立ちます。心を注ぎ出して心を献げるのは、唯一この神に対してだけです。
 
「人間の子は息のようなもの」にすぎないと詩人は言います。「人の子は」「息よりも軽い」と言っています。聖書で「息」というと、「風」や「霊」をも指しうる語が思い起こされます。それで一瞬、この詩の表現に戸惑うかもしれません。でも、ここの「息」の語は、それとは違います。呼吸するものを示す別の言葉なのです。
 
それは「蒸気」のようなものであり、「空しいもの」を象徴しています。ここではつまり、敵がそうだ、と言っているのです。しかし、恐れる必要のない暴力です。自らそのようなことをなすことがある、との自覚が必要です。自分の中に、恐ろしい暴力性があることに気づく必要があります。いつも被害者意識をもつ人こそ、用心しなければなりません。
 
そう、私たちは己れの中に、悪がはびこらないように、見張っておかなければなりません。自分の中の悪に目を光らせます。それは信仰により、すでに私たちは、神が悪に勝利することを知っています。本当の力は、神にのみあります。主は慈しみ深く、ひとそれぞれに的確に対応して、報いを与えます。私への眼差しを、主が忘れることがありませんように。

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