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イスラエルの原点としての奉献式

歴代誌下7:1-3 
 
後に、心のシンボルでもあったエルサレムの神殿は、侵略者たちに破壊されました。人的被害もさることながら、心の拠りどころとしての神殿の焼失は、精神的に限りなく大きな損失となりました。イスラエルにとり、この神殿はアイデンティティであったのです。それが奉献された時のこと、つまり神殿のルーツがここで記録に遺されました。
 
それはどんなにか光栄だったことでしょう。誇らしい出来事です。ダビデという建国の王がいて、その子ソロモンの時代、イスラエルは最高度に栄えました。その歴史上、豊かな富で輝いた唯一の時代でした。最も信仰篤い時代でもあり、イスラエル最盛期であったという記憶が、こうして文書化されたのです。尤も、信仰はダビデがピークでしたが。
 
盛大な奉献式であり、ソロモンが長い祈りを献げます。罪を人は犯す。その前提で、主をこそ称える祈り、その祈りが終わりました。今日はそこを見ます。火が天から降りました。後のエリヤの祈りを私たちは重ねたくなります。いけにえが焼き尽くされます。神殿には、主の栄光が満ちました。人々は皆、そこに主の臨在を感じたのです。
 
神々しい雰囲気を、人は感じることがあります。神の臨在感がある、と。イスラエルの人々は、それをこのとき見たのです。臨在感ではありますが、「見た」という視覚の言語で表しますが、視覚に限る必要はないと思われます。人々は、神を知ったのです。知ったとは、深く人格的に経験したこと、つまり出会ったのです。神を体験したのです。
 
敷石の上に身を屈めてひれ伏すと、人々主を賛美しました。「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、詩編によく歌われる賛美です。なにはともあれ、まずこう称えるとよいとされる言葉であり、ワーシップです。ここに記されたいけにえの数は半端ないものですが、小羊イエスの血は、これとは比較にならないくらい偉大な献げ物となりました。

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