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救いを与える神の義

詩編85:2-14 
 
「我らの救いの神よ」との呼びかけに、詩人の心がたっぷり詰まっています。この後「救いを与えてください」と願い、「救いは主を畏れる者に近く」ある、としています。この詩は、イスラエルを歌っています。「私たち」を与格を中心に配し、神が私たちにこのようにして下さい、という形を繰り返しています。
 
個人を挙げるかのように見えても、つねに「私たち」を想定しています。すると、言い訳ができなくなります。民族の一つの歴史がはっきりとしているからです。民は過ちを犯しました。しかし主は、それを取り除きました。人間に対する怒りを治めます。しかし「私たちを元に返し」てください、と願っています。
 
怒りをこのままこれからもずっと遺してしまうのか、嘆いて問うています。もう再び、民が喜び祝うようにはしてくださらないのか、との迫りは、いま望みが十分にもてないことの現れであるように感じられます。慈しみが分からないかのような言い方もしています。そうして次に視点を自分たちへと戻します。
 
「主なる神が何を語られるかを聞こう」というのは、自らへ、そして同胞への呼びかけとなります。主の声は、平和を語っているではありませんか。あるいは、こんなに平安が与えられている、与えて下さる、というようにも見えます。「慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする」の言葉を介して、詩人の眼差しは「義」へと向かいます。
 
主の正しさ、と日本語で解するのとは、うまく一致するような気がしません。主を拝する者に恵みを与えること、慈しみを施すことは、主の理に適った業です。神が神であることとは、人間のわがままな願いを叶えることではなくて、人間が罪と悪に染められていることに対して、いつもまさしく不変の真理であり続けることではないでしょうか。
 
神の「義」は、ひとの「救い」と直結しています。たとえ存在論的にそれらが独立した、無関係であるかのように見えたとしても、人間にとって、自分が求める「救い」というものは、自分の思惑やわがままでは達成されず、神の「義」に基づいて与えられるものであるに違いありません。「救いと裁き」にも「義」が現れます。救いを祈る詩でありました。

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