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環境問題やエネルギー問題
中三生の理科の授業は、地球規模で科学についての基本知識を伝える場となることがある。エネルギーとは何か。地球環境や生態系について。しかし、人間の位置というものは、案外学習の視野には入れないらしい。食物連鎖のピラミッドの中に入れないのだ。というのも、人間は決して肉食動物として位置しているのではないからだ。むしろ草食動物の位置に近い。ただ、人間は誰からも食べられない位置にいる。その意味では、生物の頂点にいる、とも言えるし、生物界を管理、または支配しているという立場を容易には否定できないだろう。
エネルギー問題についても、それの枯渇を深刻に取り上げはしない。ただ、「化石燃料」の語は記憶しなければならない。それが有限であることは理解しなければならないが、この先どうなるか、についての深刻な議論は入らない。若者の世代にそのしわ寄せはくるだろうが、風力発電や地熱発電などが期待されている、ということを出せば、希望があるかのように錯覚させようとしているとも言える。
ともあれ、受験生は、ともかく入試に出るから、と覚えればそれでよいのだろう。そういう時期にこの学習をもってきていることも、なんだか大人の狡さを感じさせるようで悲しい気もする。だから学習塾でも、精一杯、そこへ一度は目を向けさせることを私は止めない。
エネルギーとくれば、発電所についても大枠を教える。原子力発電の原理というものも、私は曖昧にしたくない。福岡で育った私は、昔、玄海原子力発電所に社会科見学に行ったことがある。小学生なりに調べると、夢のような発電法だとときめいた。これはクリーンで、石油問題を解決できるではないか。
九州エネルギー館にも、その小さな模型があり、解説があった。それは大人になってからも見ることができた。残念ながら、いまはこの館自体がなくなっている。
しかし、チェルノブイリ原発事故は、原子力発電について、その危険性を知らしめることとなった。その事故以前にも、原子力発電の問題を訴えていた科学哲学者もいた。その訴えを無視するのが、行政である。だが、津波による福島の原発事故は、原子力発電の危険性を露呈してしまった。それでもなお、それは安全だ、と無責任な決めつけしか言わない人も、ないわけではない。
中学生に、原子力発電の原理を尋ねても、それを知る生徒は殆どいない。核分裂反応のエネルギー程度は話しておこう。質量がエネルギーに変化する、などという世界については、またいずれ学べばよい。最も分かってもらえるには、原子爆弾と同じだ、と説明することである。その反応を、極力ゆっくりと起こしているのだ。それから水を蒸気に変える。要するに沸騰させて蒸気の力でタービンを回すのだ。電磁誘導の原理は中2で学習している。発言というものが、ここで初めて結びつく生徒もいるようだ。バラバラだった知識が、ひとつに束ねられる。これが中3の理科の醍醐味である。
原子力発電と原子爆弾。同じ原理で起こることでも、その結果ともたらすものが大いに違う、ということがある。だから倫理という考え方を養わなければならない。良かれと思ってすることにも、致命的な問題が含まれていることがある。そのことへの警戒を訓練されていないと、政府のいいなりになってしまう。倫理という科目が高校にしかないことを、私は憂う。しかも、哲学者の名前と有名な言葉を覚える程度の学習である。高校を出ても、倫理の考え方が養われるとは思えない。その辺り、フランスの哲学教育については、昔から有名である。先日そのことを伝えるテレビ番組を偶然見たが、日本で一番頭がいいような役割を果たしている若者たちが、フランスの哲学の問いに対して文章を以て応えていた。その結果、哲学的思考にかけては箸にも棒にもかからない底辺層にあることが明らかになった。
さも良いことのように宣伝されること、しかしそのリスクを考えずに、いざ事が起こってしまうと、取り返しのつかない被害をもたらす、そういうことがあるのだ。いつもそのリスクを指摘するのは、マイナーな学者や、市民団体である。そして、政府はそういう学者を中枢部から追い出そうとし、非国民呼ばわりを唆す。だが、リスクの考慮と管理ができない組織は、恐らくやがて滅亡するだろう。大帝国を初め、多くの国家事業の歴史が、それを端的に示している。歴史を学ぶとは、未来のためであるという理念が見当たらない。昔話のクイズだと勘違いしている、おめでたい民族は、歴史から学ぶことがない。つまり、未来を創造することができないであろう。
聖書もまた、歴史の中で過ちを生んできた。聖書は確かに、救いを人々に与えた。他方、人々を高慢にさせた。少し正確に言えば、聖書という非人格的なものが過った、とは言い難い。基本的には、人間の業と言ったほうがよいであろう。科学自身は悪くない、それを使う人間の責任だ、という意見がある。聖書もそういう口なのか。聖書は免責されているが、それを使う人間が聖書を利用して、悪を為してしまったのだろうか。
責任をとるのは、聖書というものというよりも、やはり人間を問うほうがよいと思われる。そうでないと、人間はどこまでも自身の責任を逃れようとするだろう。俺は関係がない。ただ見ていただけなのだ。だが、本当にそれでよいのだろうか。
原子爆弾はもちろんのこと、戦争や紛争に、私は無関係なのだろうか、問わざるをえない。私がこうしてコーヒーを飲んでいること自体が、貧困や争いの原因となっている、ということはないと言えるだろうか。私に風を送る扇風機が、資源を枯渇させ後の世代を苦しめているということは、本当にないのだろうか。
戦いを止めよ。ネットで呟いてみる。それが免罪符になるのだろうか。もっと言動を激しくしなければ、戦いこそ正義だと主張する者たちから見ても、反対勢力にすらならない、雑魚どもだと無視されているのではないのか。つまり、何の存在意味ももたない、自己満足だけの観念に過ぎないのではないのか。結局、その賛同者として扱われ、利用されるだけになってしまわないか、懸念する。
自分だけはそんなことはない。そう嘯く人々が、今日もまた、「誰かがしたから自分も同じようにする」という原理で、本来してはならないことを平気でやっているような気がしてならない。自分の周りにどんな人がいて、どんなふうに自分が見られているか、そんなことには全く関心もなく、下を向いて自分の世界に閉じこもって、冷たい行動を平気でしているような、目を塞いだ人を、毎日毎日私は目撃しているのだが。
こうしてパソコンを利用していること自体が、原子力発電の恩恵を受けているかもしれない。それでいて、原子力発電がどうだ、などと批判をしたところで、自己認識もできない、惨めな敗者でしかないのだ。否、火力発電ならよいのか。これもまた何の説得力もない声以上にはなりそうにない。
それとも、もうこうなった、みんなでやれば怖くない、とでもいうのだろうか。
グレタ・トゥーンベリさんについても、本などを通じて少しばかり近づいてみた。だが、私は彼女から批判されはしても、握手はしてもらえそうにない。彼女をひとつのシンボルのようにして始まった、若者たちの怒りというものが、世界を吹き荒れている。若者たちは怒っている。いま資源をいいだけ使う大人たちは、やがて死んで地上からいなくなる。しかし若者はその後も生き残る。大人たちが使い果たした資源は戻ってこない。若者たちは、エネルギーのない世界に取り残されることになる。いわば、どうせ死ぬのだ、と年寄りたちが財産を食い潰し、孫の世代にはなんの遺産も残さないで、むしろ借金だけを背負わせている、という図式である。いまさえよければ、と年寄りたちは、いまの産業だとか経済だとかを理由にして、資源や環境を顧みることなく、後は野となれ山となれ、と残りの人生を楽しんでいる。このように、一部の若者が怒っている。もっと怒ってよい。
この夏の酷暑という言葉では足りない「危険な暑さ」もまた、ただの自然現象と言い逃れすることは、もはやできないだろる平均気温の上昇は、氷の溶解による海洋の変化はもちろんのこと、生態環境を変えることから、感染症についても、かつては想像もできなかった地域に蔓延することが懸念される。日光の人体に与える影響についても、その影響が顕著になってからじたばたしても、もう遅い、ということになりかねない。耳元で音楽を大きな音量で聞く人々の将来が、聴覚的にどう問題を起こすか、いざ大々的に現れてきてから考えるのでは遅いのと、同様である。
「偉そうに言うな。おまえだって……」と、足を引っ張りひとをこき下ろしさえすれば、問題が解決できるかのような、愚かなことをする暇があったら、聖書がよくいう「主に立ち帰る」という概念を、自分自身に適用することを、真剣に始めることへと歩き始めるべきだろう。これ以上罪を自らに塗り重ねないためにも。