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他人のことにも (フィリピ2:1-5, エゼキエル39:7-8) アドベント1

◆そもそもクリスマスとは

12月25日はクリスマス。イエス・キリストが生まれたことを祝う祝祭です。でも、「クリスマス」という呼び方さえ、なくした方がよいかもしれない、と私はよく考えます。その名前は、あまりにも俗的に浪費されるようになりました。手垢がついた、どころではありません。もはやキリストなど何の関係もないお祭りとなり、商戦の名称となり、はては欲望の場面設定にすら成り下がっています。
 
しかも、聖書の中に「クリスマス」とそれの原義となるような言葉すらありません。「クリスト」即ち「キリスト」の「ミサ」つまり「礼拝」という謂れがあるそうなのですが、そこには、神が人となってこの世界に生まれたことを特別に指すための、必然的な響きもありません。
 
まして、ただの英語です。どうやら古英語で文献上見出されたのは、1038年が初めてだと聞きました。キリストの現れた時代の千年後から人間が使い始めた習慣の英語に過ぎないのです。どうしてもこの呼び名に固執しなければならない理由は、何ひとつ見つかりません。
 
サンタクロースの日、との認識は、なにも子どもたちばかりではなさそうです。せいぜい、家族が共に集まり幸せを分かち合う、というくらいなら、まだ人間的な温かみもあるのですが、欧米ならいざ知らず、日本でそういう雰囲気がどのくらいあるかさえ、極めて疑問です。
 
12月25日が終わった瞬間、注連飾りのような正月の飾りに一斉に替える商店のアルバイトも忙しいでしょう。もしかして、キリストの誕生日だってよ、くらいの認識があったにせよ、一週間後には神社に手を合わせるのが平均的な日本人です。
 
制定された「母の日」に、母の日の原点となったアンナ・ジャービスがやがて激しく反対したように、いまや「クリスマス」というお祭りに、キリストご自身が最も反対しているのではないか、とすら想像してしまいます。
 
だいたい、12月25日という日も、ローマの異教の祭の時期を拝借した、というのが通説であるように、キリストが生まれたという意味では、なんら根拠のない設定です。復活祭が春であることは、聖書の記述からすると妥当であるのですが、この北半球の冬のクリスマスは、聖書に照らし合わせても、かすりもしないものとなっている、と言ったほうがよいようです。
 

◆クリスマスの記事

ずいぶんと過激なことを言っているように聞こえたかもしれません。それでも、この時期に、イエス誕生の記事とその意味について、沈思することには、私は吝かではありません。どこかでこの出来事について、落ち着いて深く思いを巡らせてみたいと考えています。日本では「師走」と言って、僧侶を年末に宅に招いて経を唱えてもらったことに由来するとかしないとか知りませんが、何かと忙しい時期です。落ち着くことは大切です。
 
イエスが生まれた経緯についての記事は、マタイ伝とルカ伝にあります。クリスマスの時期には、その聖書箇所が開かれるのが恒例となっています。しかしあまりに記事が限られていることから、マンネリ化を避ける意味からも、別の箇所も開かれるようになっています。代表的なのは、キリスト生誕を象徴的に説いたヨハネ伝の冒頭や、キリスト生誕を預言したと見なされるイザヤ書でしょうか。
 
しかし、それでも限られていますので、クリスマスの時期の説教はまたこれか、という気持ちで迎えられることがあるかもしれません。同じ牧師ですから、また同じようなことを話すだろう、と信徒も慣れてきます。牧師とて、そう違ったことが話せるわけではないので、聞く方も、話す内容はだいたい分かっているよ、という態度になり得ます。こうした事態は、ある程度仕方がないとも言えます。
 
けれども、もちろんどの説教も、同じような教会のイベントであっても、それぞれが恵みです。全く同じ原稿を棒読みするのでないかぎり、その時に適ったメッセージがあるでしょう。神の霊を受けた説教者の言葉は、神の言葉です。語られる意義のあることが語られ、聴く者が神に向き合って言葉を受け取るならば、きっと相応しい命をそこから与えられるはずです。神は、説教で語られる言葉によって、聴く者の心を開き、その人を生かすことができるお方です。相応しい器である人物が語る福音の言葉には、そのような力がきっとあるだろうと私は信じます。
 
他方また、自分が聴くに馴染んだ、決まった型で語るだけでよいのだろうか、という疑問を呈することも可能です。奇を衒うつもりはないのですが、ありきたりではない形で語られる可能性を模索することがあってもよいのではないか、と思うのです。それは、語る者がこの時期に聞き受けたことです。それをきっかけとして、手探りではありますが、神の恵みの光を求め、そこから照らされたものを、スピーカーとしてお伝えすることがあってもよいのではないでしょうか。それをお許し戴きたいのです。
 
今年、フィリピ書の一部を、アドベントからクリスマスまで、1か月ほどの間繰り返し聴きたいと願います。時節柄慌ただしい生活を強いられることがおありでしょうから、ぜひ、聖書をゆっくりと繰り返し味わい、受け止めてゆく時をつくって戴きたいと願って止みません。
 

◆フィリピの信徒への手紙

まず、四週間にわたり繰り返し開きたい、フィリピ書2章の初めの箇所を、一度全部見渡しておきましょう。
 
1:そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、
2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
4:めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
8:へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。
9:このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
10:それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
11:すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
 
フィリピの信徒への手紙は、多分にパウロがローマで軟禁されていたときに記したものと研究者は説明します。使徒言行録を見ると、ローマへ護送されたのは、皇帝に上訴したからであって、パウロとすれば損な選択をしたような書き方がなされています。囚人としての身分ではありますが、ある程度の自由な状態に置かれていたのではないか、と言われているのです。
 
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒28:30-31)
 
しかし、パウロの生活は、支援者なくしては成立せず、フィリピ教会の人々は、その支援をしていたために、パウロが御礼を書いた、というふうに理解すると、この手紙が読みやすくなるようです。ローマ書は、手紙ではあっても説教臭いところがありますが、フィリピ書は、人の顔を思い浮かべながら綴った、温かみのようなものを思わせるものがあります。
 
従って、パウロとフィリピの教会は、比較的良い関係の中にあったものと見られます。少なくともコリントの教会のような、ぎくしゃくした関係ではなく、互いの信頼の上に成り立つ心の通い合いを感じさせています。
 
フィリピの教会は、ヨーロッパと呼べる地に成立した教会のうちでも最も古いように考えられます。パウロがつくつた集団である、とも見られます。マケドニアの東にある町で、ローマからは、距離にして1000kmを超えますが、エルサレムを基準にすると4000kmはあることからしても、まだ連絡は十分可能な距離だったと考えられます。
 
この引用箇所の後半は、特に「キリスト賛歌」とも呼ばれています。教会に伝わっていた、キリストを証しする決まり文句ではなかったか、と考えられています。私たちが使う「使徒信条」のような役割を果たしたように見受けられます。そのため、もしかするとパウロ本人が綴った手紙の中に、後から入れられたのではないか、という人もいますが、私たちはそうした研究を重んじつつも、それだから殊更に態度を変えるということをすることなく、聖書は聖書として読み続けていきたいと思います。
 

◆アドベントとパウロ

さて、クリスマスが12月25日である、とするのは、伝統としてとりあえず受け容れておくとして、クリスマス礼拝は日曜日ですから、25日以前直近の日曜日ということに定められています。その四つ前の日曜日から、クリスマスを待つという思いをこめた礼拝を献げます。これを「待降節」と言いますが、英語での「アドベント」も近年よく用いられるようになりました。英語ではありますが、カトリックの伝統の中で中心を占めていたラテン語由来の言葉です。それはラテン語で「アドベントゥス」と言い、意味は「到来」あるいは「来臨」というようなものです。元来、ローマ皇帝が都市へ入城する時のセレモニーの時に使われる言葉でした。キリストについて言えば、王としてこの世に来られた。この世への入城を意味します。
 
アドベントもまた、聖書に直接由来する言葉ではありません。ただ、この「到来」と、それを「待つ」気持ちというのは、イスラエルを救う救い主の到来をひたすら待っていた、ユダヤ人たちの当時の思いと重なるものがあるのは事実で、イエスの生誕に直接関わる信仰の情況を表すものとしては、意義あるものと言えるでしょう。
 
イエスに対しても、あなたはあの伝説のキリストなのか、としきりに人々が問う場面が目立ちます。バビロニア帝国に支配され、ペルシアによりそこから解放されたものの、ローマ帝国により辛酸を舐めた挙句属国となり、その後抵抗運動が起こりますが全滅させられて、ついにエルサレムからユダヤ人が追放に至ったという歴史がありました。こうした中で、ユダヤ人がいま現在なおメシアを待ち望んでいる、というのです。イエスをその救い主と信じるかどうか、ここがユダヤ教とキリスト教の分かれ道となっています。
 
メシアを待つ思いを、キリスト教会も忘れはしません。それを大切にし、記念とします。それが教会の伝統です。「聖書のみ」を標榜するプロテスタント教会だからといって、聖書に書かれていない教会の伝統を何一つ受け容れないなどということはありません。
 
アドベントの礼拝は、約1か月の間に、三度または四度行われます。今年2024年は三度です。そのアドベントの第一である今日、先の箇所から特に目を留めて、そこから神の心を聞きとりたいと私が選んだのが、次の箇所でした。
 
1:そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、
2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
4:めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
 
ここは、パウロが書いたことを疑う人は、まずいません。パウロは、キリスト教の歴史において、大きな仕事を果たした伝道者です。福音書の中には登場しませんが、ルカ伝の続編としての使徒言行録で大活躍します。そして、新約聖書の後半にある、いわゆる「手紙」の中の多くを手がけました。その中には、パウロが書いた旨記されてはいても、実のところパウロ本人ではなく、パウロの後継者が綴ったというものもありますが、かなり疑り深い研究者でも否定できないものが幾つもあります。フィリピ書も、その一つです。
 
パウロが書いたのでないのに、パウロが書いた、と記されている手紙もあります。それらはパウロの名を騙ったような形になっており、剽窃だと言いたくなる人もいると思いますが、それは今日的見解に過ぎません。当時は、そのように先人の名を以て文書を記すことこそが、先人にリスペクトを払うことであり、大切なその思想を後世に伝えてゆくスタイルだったのです。
 
パウロが書いた手紙は、キリスト教信仰の教義として見なされてきました。今日でも、そう捉えられています。福音書の物語はイエスの言葉ももちろん貴重ですが、何をどのように実際に信じたらよいのか、それをまとめたものとして、パウロの書いたものは非常に尊重すべきものと見られています。それは、キリスト教の信仰のエッセンスとして受け止められているのです。
 
ただ、本日のこのフィリピ書の2章の最初では、教義というよりも、信徒の信仰生活のひとつの要が書かれているように見えます。そう、パウロ書簡は、教義的な部分と、教会の問題への対処、それから信仰生活の指針というものが、たいへん分かりやすく書かれているのです。今日は、ここから残りでたっぷりと、神の心を受け止めたいと願っています。
 

◆教会の問題

パウロの手紙は、信徒の集まりに向けて書かれています。いまでいえば教会ですが、信徒が密かに集まっていた集まりであったり、また時に共同体であったりしたものだろうと考えられています。そこに、「同じ思い」「同じ愛」と斬り込んでゆきます。心の一致を勧めています。
 
フィリピの教会は、パウロが集めて成立させたそうです。そのせいもあるでしょうが、最初に述べたように、パウロとは親和性が高かったものと思われます。だからこそ、このように「同じ」であること、しつこくない程度に言えば、パウロが気にかけていることは十分伝わると思われたかもしれません。問題がなかったわけではないのでしょう。ただ、コリント教会のように手を焼いたところではなかった、と推測できます。そしてだからこそ、コリント教会のような「分裂」騒動になることを恐れたのではないか、と思えます。
 
それにしても、「幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら」という言い方は、聞きようによってはけっこう厳しい言葉です。原語のニュアンスを覚る能力は私にはありませんが、これではまるで、憐れみや慈しみというものが殆どない、と指摘しているようにも感じられます。そうなると、このフィリピの教会もまた、なかなか「一つ」にまとまらない根本的な問題があったのかもしれません。
 
でもこれは、他人事ではありません。私たちの教会はどうでしょうか。キリスト教会というところは、一般社会の組織よりは、恐らく比較的信用がおけるところだとは思います。悪意を以て人を騙すような輩がうようよいるようには考えられず、疑心暗鬼で付き合う場ではない、とたいていの人は考えています。信者であれば、神が見ているという点を頭から消すことはないだろうから、そこまで悪いことを平気でしないだろう、と。
 
それでも、過信はできません。クリスチャンにはクリスチャンなりの罠というものがあります。特に、ファリサイ派はけしからんと福音書を読み取っていながら、自分のやっていることは正にファリサイ派のやり方ではないか、と気づかされるときには呆然とします。その他、自分は信じているぞ、と思いこんでしまうことによって、自己中心的に、自分は正しい、というお墨付きをもらったような錯覚に陥ることもあります。
 
そして、教会を訪ねてきた人が、教会の中に、そういうものを敏感に察することも、大いにあり得ることです。いつも教会にいたら気にしなくなってしまうことも、外から来た人には、異様なものだと感じてしまうこともあるわけです。初期の教会が、カニバリズムかと誤解されたのも、そういう現象のひとつであるような気がします。
 
特に、教会というところは、心の清い人が集まった、「敬虔な」クリスチャンのいるところだという先入観も、予想以上にあるものです。世間の汚さに疲れて教会に清流を求めてくる、というのは、ある意味で人として健康的な動機だといえます。それだから、教会の中にとても人間臭いものがあるのを知ったら、非常にがっかりして、逆に失望してしまう、ということもあるわけです。教会に対する期待値が高い分だけ、失望感も強くなるのです。
 
教会内部にいる人も、気をつけなければなりません。他の教会の運営や有様は、見慣れないものであるだけに、理解しづらい場合も少なくないのです。そのとき、あの教会にはこんなアラがある、そちらの教会はここがダメだ、などと悪いところばかり目につくことになってはいないか、点検したいものです。
 

◆天の窓

先月、休日を利用して、宗像大社へ行きました。中を巡ったのは初めてでした。世界遺産に登録された、「神宿る島」の沖ノ島が「沖津宮」、それよりも本土に近い大島にあるのが「中津宮」、そして本土の宗像大社は「辺津宮」と呼ばれます。これらはそれぞれ「宗像大社」の一部です。沖ノ島には、国宝が何万点もあり、その一部は宗像大社「神宝館」で公開されています。お訪ねになったら、ぜひ神宝館もご覧になることをお薦めします。
 
さて、その宗像大社はもちろん神道の神社でもありますので、いろいろ祈祷もなされています。そのときには七五三の子どもたちが中心でしたが、大人のためには「厄年」というものが掲げてありました。私はその厄年にあたり、その悪いところは「八方塞がり」だと書かれていました。もちろんそれを鵜呑みにしてお祓いを受けるようなことはしませんが、このとき妻が私に声をかけました。「八方塞がりだって。でも、上は塞がっていないよね。」
 
そうなのです。キリスト者には、天が空いています。追い詰められようと、周りが苦難の塊であろうと、上には神とつながる道があります。これを教会では、「天の窓」と言います。キリスト者は、天に窓をもっているのです。
 
地上ばかり見ていると、四方八方すべて壁で塞がれているかもしれません。厄年の指摘は、そういう世界に生きていることを証拠立てています。しかし、キリスト者は、神との関係をもっています。神が雲の上にいる、などと言いたいのではありません。
 
イスラエルの人々も、祈るときには天に向けて手を挙げて祈るのが普通でした。地べたを這い回る人間に目を向けるのではなく、顔を挙げ、手を伸ばし、神と向き合うときにそこを「天」と呼びました。神を求めるときには、その「天」を仰ぐようにしました。
 
天には、窓が開いています。マタイが「神」の名を呼ぶことを控えるために、「神」と言うべきところを「天」と言ったことは、よく知られています。私たちが「天」に向けて祈るとき、私たちは確かに神とつながっていることになるでしょう。神とのつながりがそこにあります。すると、私たちには横の関係も成り立つことになるでしょう。一人ひとりが神とつながっている、そのようなキリスト者は互いに同じ神の許にいる者だということで、通じ合うものがあります。教会とは、建物ではなく、そうした関係そのもののことを言うのです。
 
「めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい」(2:4)とパウロは書き送っていました。他人のことに注意を払う。まるで道徳のようですが、そういうことではないわけです。「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら」(2:1)というのは、必ずしも教会の足りなさをチクるようなことではなくて、むしろこれを前提として初めて、神と向き合い、結びついた関係があるところで、教会が成り立つものだ、と確認していたのではないか。そう理解できると思うのです。
 

◆到来を思う

キリストは、今から二千年ほど前に、ユダヤの土地に人として現れました。私たちは、神が人となって来てくださった、と理解しています。それは、過去の出来事だということは確かです。教会に誰かを連れてきたとしても、その人が、過去の出来事がいまの自分と何の関係があるのか、と疑問を呈する人がいます。イエス・キリストが地上にいたことは認めたとしても、それがこの自分とどう関係するのか、と問うのです。
 
そう。それはクリスチャンでも同じです。神に対して、自分は関係がない、とそっぽを向くならば、神と自分との関係は成り立ちません。
 
でも、神は私たちを呼んでいます。一人ひとり、その名を呼んでいるといいます。罪人であったときに、神は私たちへの愛を示した、そのようなことをパウロが書いていますが、神の方から私たちに呼びかけていたことが先にあった、と受け止めてみます。その呼ばれた声を聞いてそちらを振り向き、神に応えるようになったら、神を信じた、ということになるのでしょう。統計の数字がどの程度信用が置けるか分かりませんが、世界中では、年に何千万人単位で、そうした人が現れているそうです。
 
キリストが人の世に来ました。その出来事は、単なる過去の物語で終わるものではありません。いまもこうしてその言葉が、私たちに呼びかけています。働きかけています。そして私たちを突き動かしています。私たちはそこに信頼を置いて、自分が歩む光を覚え、道標とし、指針としています。
 
このことは、エゼキエル書39章でも、力強く宣言されています。
 
7:私はわが聖なる名を、わが民イスラエルの中に知らせ、二度とわが聖なる名を汚させない。こうして、諸国民は私が主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。
8:それは到来し、実現する――主なる神の仰せ。これは、私が語った日である。
 
まずイスラエルに告げ知らされた神の名は、他の国々へも及びます。キリストが到来したように、この出来事も到来し、実現します。そのように、主なる神が語った、と預言者が語っているのです。
 
新しいイスラエルとしてのキリスト教会は、必ずしも善いことばかりを世にもたらしたとは限りません。信仰があると口で言うだけの者が、恰も神を利用して自己顕示欲を満たすようなことばかりしてきた、黒い歴史すらあります。思い通りに人や世を操ろうとしてきたのが、特に西欧社会の歴史であったかもしれません。キリストは、二千年ほど前に、一度世に来ました。その後人間にチャンスを与えたのですが、しょせん人間ですから、必ずしも善いことを世にもたらしたとは限りませんでした。しかし聖書は教えます。キリストは、もう一度来る、というのです。キリスト教のエッセンスとして、キリストがこれからまた再び来る、ということは、忘れることはできません。
 
先ずあなたの心に、十字架と復活のキリストが直接呼びかけました。そうして救いを果たしました。そのキリストが、もう一度来ます。この世界に、神の言葉を本当の意味で実現するために、来るという約束を果たしに来られます。キリストを待つ待降節のように、私たちは、もう一度キリストが来て、この世界の結末をもたらすという時を待っています。私たちも、「待つ」生き方をしているのです。
 
ですから、以前キリストが初めて地上に訪れることを待っていた人々の姿から、きっと学ぶことがあると思います。また、かつて最初に地上に来たイエス・キリストの出来事が、新約聖書に描かれています。その出来事の言葉に、もっとよく耳を傾けましょう。新約聖書から、また新たに神の言葉を聴きましょう。キリストの現れを待つために設けられたこの時期に、私たちは聖書に耳を傾けて、心穏やかな時を過ごしたいと願います。

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