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弱さあるがゆえに
コリント二13:4-9
パウロは堂々と告げます。キリストは弱かった。栄光のキリストを思い描くほかに、キリストの「弱さ」というものも表に掲げます。それは「神の力」がそこに働き、その力のゆえに命が与えられたからです。パウロもまた弱い。しかしそれは、キリストと共にある弱さです。パウロも、そしてコリント教会の人々も、強く生きることができます。
神の力が助け、キリストが共にいるからです。命がここにあるからです。だから、吟味せよ。そうパウロが言います。自己点検をせよ、と言うのです。自分は「信」の内にあるでしょうか。ピスティスです。自分が神を信じるという枠であるかもしれませんが、キリストが私たちに真実を尽くしている、という場の中にいるかどうかも想定されています。
キリストが、そもそも我が内に生きているということを、信じて生きているでしょうか。それを信じていないのであれば、「失格者」です。パウロはそこまで言います。果たして私たちは、そういうメッセージを毎週受けているでしょうか。教会を吟味することも必要です。コリントの人々よ、このことを体験せよ。パウロは何故そう言うのでしょう。
パウロを立派な信仰者だと誇りたいために、言っているのではありません。善き業を為せ。悪に陥るな。神に生きる強さを身に受け、これまでパウロを悩ませていたような、悲しいことをもうしてくれるな。キリストという真理が、私たちの目の前にあるではないか。キリストの真実が、あるではないか。キリストが私たちの内に、生きているではないか。
パウロは、手紙を閉じようとする中で、「初心に帰ること」を祈っているのだと言います。「完全な者になること」という訳も、ここは可能だといいます。教会に対する平和を求めるメッセージは、信仰のシンプルなところを思い、信仰の核心に至ることを気づかせようとしています。それというのも、弱さあればこそです。弱さのゆえに、分かるのです。