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神との契約の意味を問い直す

創世記9:1-17 
 
ノアは、突如神から、世の終わりのような裁きを知らされました。箱舟を造ることを命じられると、ノアは神に言われるままに従い、行動しました。ついに神の言葉が現実となり、人間はノアとその家族だけが残りました。神が一方的にイニシアチブをとり、リードします。そしてここに、祝福した上で、神は契約の成立を宣言しました。
 
契約といっても、一方的に言い渡すだけのものであり、ノアの側に選択の余地はありません。神の与える契約は、そういうものです。この後アブラムにも契約が交わされますが、やはり突如アブラムに声がかかったのでした。父の地を出て行くことが命じられ、アブラムはおとなしくそれに従って行動します。問題は、契約と行動の事の順序です。
 
つまりアブラムにおいても、その行動に先立って、祝福という形での契約があったのです。ノアは、神の業を十分見せつけられた後に、契約が与えられました。さらに「契約のしるし」を見せられています。虹です。空にかかる虹は、古代人にとっては神秘的な謎であったことでしょう。メカニズム不明の美しい現象でした。
 
虹が神からのもの、と信じるのも当然でした。その虹が、神と人との永遠の約束の象徴と見なされたのも肯けます。神との関係は美しくあれかし、と人は望むものでしょう。この契約を、神は「すべての生き物」と交わしています。それは「すべての肉なるもの」が、もはや大洪水で滅ぼされることがない、とするものでした。
 
洪水は、確かにすべての生き物に影響が及びます。人間との契約は、自動的にすべての生き物との関係を決定づけるのです。「命である血」の問題を含んだ形で、人の食べ物に関わる指令を神は言い渡しました。そして「増えよ」と祝福します。しかしよく見ると、この契約において「血が流された場合」のほか、人の側の契約上の義務はありません。
 
ただ人は、生き物の管理だけをすればよいそうです。神の言葉に従え、といったふうな命令はありません。それは言外に含まれていたのでしょうか。アブラムへも、与えることの宣言だけでした。さあ従え、と迫るものではありませんでした。神との関係の中で、私たちに与えられた「契約」という概念を、捉え直す機会が必要であるかもしれません。

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