見抜かれていると感じるとき
――どうしてこの牧師、自分のことを知っているんだろう?
今週の説教を聞いて、妻が言った。もちろん、知っているわけではない。だが、語る説教が、自分の心情や信仰をずばりと突いていることを感じたのである。
実はこのような言葉は、あちこちで聞く。多くは、信仰の証しである。証しというのは、自分の体験が神に関わるということを説明することである。神に出会った経験において、礼拝説教が自分のことを言っている、と感じた、という意味であるだろう。
それは、「あなたは偉いね」と褒められた、という体験ではない。それとは逆である。「おまえは罪の中にいる」と指摘してくるのである。それがグサリと刺さることにより、自分が神の前にいる、ということを自覚する。私のように、頭をぶん殴られたように感じる人もいるだろう。
だがまた、「あなたは辛いね」という声のかけ方もある。「あなたの辛さはわたしも分かるよ」と投げかけてくるのが、イエス・キリストである。ふつう、そんなことを人間に言われても、他人に分かるはずがない、と抵抗するだろう。だが、イエス・キリストは違う。人類史上最高度の苦痛を受け、しかもそれは誤解というか、濡れ衣のようなものにより、惨殺されたのである。それでも、その死で以て終わるのではなかった。だから、このキリストに私たちは希望をもつことが許されるのである。
――どうしてこの牧師、自分のことを知っているんだろう?
このように感じるということは、その語る牧師もまた、同じ辛さを知っているからにほかならない。あるいは、同じように罪を示され、神の前に頭を垂れたことがあるからこそ、それを聴く者の心を貫く言葉が発せられるのである。同じ神の霊に揺さぶられているから、波長が合い、共鳴するのである。
しかし、語る者に経験がなく、無味乾燥な教科書の棒読みしかできないとなると、この魂の共鳴というものが生じない。たんなる言葉でしかないのに、それを頭だけで、教理的にまとめてしまって礼拝説教を聞くお勤めを繰り返すことに慣れてしまうことがあるので、気をつけなければならない。それは明らかに欺瞞である。
礼拝の中には、霊の流れというものが存在する……そのように言っても、分かる人には分かるはずだ。霊を知る人には、それが分かる。
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ14:17)
自分のことを、その牧師はたぶん見抜いているわけではない。だが、神はご存じである。同じ神の霊の流れの中にあって、語る者と聴く者とがそこにいるときに、この不思議な共鳴が起こる。だから、こうした体験が多くの人を、召命へと招いた。神を伝える使命へと動かしたのである。そうでなくとも、この体験は人を生かす。同じ命を受ける者として、語る者も聴く者も結びつけられ、共に神を喜ぶようになるのである。