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マッチングアプリの信仰

マッチングアプリというのがよく分からない。利用している方には失礼な言い方になるかもしれず、不愉快に思われるかもしれないことを承知で、少しばかり呟いてみようかと思う。
 
もちろん、直に触れたことがないし、利用したこともない。物事を知らずしてどうのこうのと言うのはポリシーには合わないから、非難めいた言い方をしたいとは考えない。
 
ただ、やはり分からないのだ。たとえば、役所に行くのだが手続きがよく分からないから、助け手になってくれる人はいないか、と人を探すような目的があるとしたら、便利なことがあるかもしれない、とは思う。だが世間でよく話題になるのは、交際相手や結婚相手を探すという目的での使用である。そこだけ強調するのはよくないかもしれないが、さしあたりそこに目を向ける。
 
最初こうしたものについて聞いたとき、それは現代的な「お見合い」なのだろうか、と感じた。かつては、親や周囲の人が、「こういう人がいるよ」と紹介する形で、会ってみて考える、という「お見合い」が多かったという。背景には、結婚が「家」のものである、という常識があったのかもしれない。
 
先日、女性の名前の歴史について教えてくれる新書を読んだ。紫式部でさえ、付けられた名が分からないとか、家系図にもただ「女」としか書かれていないケースがあるとかいうことは聞き知っていたが、その本では、「お」を付ける女性の名や、「子」を付ける名についてなど、興味深いことが多々書かれていた。
 
やはり結婚が「家」の問題である、という筋があるものの、当主(家の主人)にでもならない限り、女性はその家の中心にいなくてもよいわけで、夫婦別姓は当たり前であったという。むしろ、夫婦同姓が当然のものとされたのは、明治政府の制定に基づく、というのが実情のようである。さらに、世界的に見ても同性を強制するのは、日本だけではないか、という声も聞く。
 
さて、マッチングアプリがお見合いに類するものではないか、という私の偏見に戻ろう。お見合いにしても、ただ単に家の関係で決められる、というケースばかりではなかったであろう。武家や貴族ではそうだったかもしれないが、広く一般でのお見合いというものは、本人の希望や要望も含めて相手を探すことがあっただろうし、会ってみてお断りするということも当然あり得たのだろう。
 
だから、マッチングアプリで自分の希望に合う相手を探すということも、お見合いに類するものか、とも考えてよいのではないか。お見合いだって、何度もやり直すことがあったはずだ。ドラマだから、何度も断られて……というケースが描かれるのかもしれないが、自分に合いそうにない相手と結婚することを強制されたのではない、と考えたい。
 
マッチングアプリの場合は、もっと主体的であろう。自分の要望をリストアップし、それに適う相手が探される。これでは確かに「検索」感覚である。それは、通常出会うはずもなかった相手と出会う機会をつくるであろう。
 
気になるのは、「理想の相手を探す」というスタートである。もちろんアプリ云々がない昔から、結婚相手を紹介する企業はあった。そこでも当然「理想の相手を探す」という謳い文句があったし、利用者もそれを期待して高額を支払うものであっただろう。それが、アプリという形で、仲介人を設けずに手早くできるようになったのが、今風であるということなのだろうか。
 
もちろんそこには、危険が伴うことを承知してのことであろう。なりすましや商法、詐欺や宗教など、偽りの「相手」がいるらしい。身分確認など、措置はとられていても、網を潜る者が現れるのは必定であろう。
 
それはそうとして、「理想の相手を探す」思いは理解できないことはないが、恐らくはどこかで譲歩しなくてはならないことだろう。全部理想が叶えられるということはたいそう難しいだろう。
 
むしろ、現実に偶然のように出会った相手が、とても居心地のよい関係の中に迎えられ、これは天から与えられたものだとして受け容れること、それが大方の「出会い」であるような気がする。そういう場において、「あばたもえくぼ」という言葉が生まれたのではないだろうか。但し、この考え方を皆さまに押しつけるつもりは毛頭ない。
 
そうではなく、そのとき「自分」はどうなっているのか、という点が、最も気になるものである。理想の相手を求めているその自分は、相手にとっての理想であるのだろうか。少なくとも、理想になろうと努めているのだろうか。自分は全然ダメダメである。だらしないし、欠点ばかりだ。恥ずかしい人間である。だが、理想の相手に出会いたい、理想の相手からも好かれたい。それは、あまりにも虫のいい、あつかましい魂胆ではないだろうか。
 
自分が理想に思う相手を探すより先に、自分が誰かの理想になることを求めるのが、筋道というものではないだろうか。それが、人と人との出会いであり、「共に生きてゆく」ことの始まりとしての結婚という「場」の備えではないのだろうか。
 
ところが、信仰の世界では、この筋道が崩れる。理想の神を求めるとき、まず自分が理想の人間になろう、とする試みは、すべて却下される。そんなことはできない、と。それよりも、自分は全然ダメダメである。罪にまみれた、最低の人間である。だが、理想の神は、そんな私を愛してくださった。文字通りに命懸けで愛してくださった。
 
聖書が知らせる話は、とんでもない話であるようだ。

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