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年末年始特集・小説「ヤエル」8 (最終回)
タボル山に戻ってデボラに会うと、イスラエル軍の将バラクは、勝利を報告した。
「ただ、敵将シセラの姿がどこにも見えないのです。もしかするとここへ逃げて来てはいないかと……」
デボラは、左手の方向を指さした。
「遥か彼方に、東に徒歩で急ぐ兵の姿があった。ではおそらくあれがシセラだったので しょう」
それを聞いてバラクはむしろほっとした。シセラはまだ女預言者デボラの手にかかってはいなかった。
「追いつけますか」
「おそらく。シセラは、ハツォルの王ヤビンのところに帰ろうとしているはず。ただし、あそこまでは一日かかる。途中、キネレトの海の近くで一夜を過ごすに違いない」
バラクは、ナフタリの地に紛れ込んだシセラなら、自分が手柄を立てるチャンスが大いにあると睨んだ。
百人部隊を引き連れて、バラクはシセラを追った。タボル山から東のヨルダン川への道を追う。
「見ろ。この道を逃げたのはまちがいない」とバラクは部下に腐食土を指さした。「これがシセラの足跡だ。このまま行けばたどり着く地は……」
バラクは思わずにやりと笑い、一行をエロン・ベツァアナニムの、カイン人の鍛冶職人の住む場所を目指した。
「デボラさまが見ている。シセラは一人だ。だが油断するな。手負いの獅子ほど怖いものはない。まして、カイン人はシセラの味方。どれほどの勢力がそこに待ち構えているか、見当もつかない。用心に越したことはない」
百人部隊は気を引き締めて、将に従った。バラクは、この手でシセラの首を取る時が近いと感じて興奮した。
やがて、問題の地域に入ると、ヨルダン川沿いの方向にカイン人たちの天幕が広がっているのが見えた。
『この道を逃げてくれば、まずこの一族のもとに入っていくことはまちがいない』
慎重に、慎重にバラクは天幕に近づいた。もう日が暮れかかっており、時を延ばしては不利になる。周辺に絶えず気を配りながら、主人のものらしい天幕に近づいていく。下男らしい者がイスラエルの兵に気づいて、慌てて自分の天幕に戻る様子が見えた。
『なにか変だ』
一同は顔を見合わせた。すでにバラクたちの侵入は、主人には伝わっているはず。どのような反応で迎えようとするのか。いやに落ち着いているではないか。
一人の女が、その天幕から姿を現した。女主人らしい。からだに巻いた一枚布の服は、その女が十分に細いことを示し、しかも豊かな胸をよけいに強調していた。それでいて、どこか気品を感じる。
バラクが先に名乗った。
「我輩はイスラエル軍の将バラクである。ここに、ある敗残兵を追って参った。知っているなら、その男の行方について教えてもらいたい」
分かっていた。遊牧民は、一度天幕にかくまった人間は、命に代えてでも守るという習慣であることも。だが、バラクとしてはまずそのように問いかけるしか方法がなかった。
「バラクさま」とヤエルは答えた。「おいでください。あなたが探しておられる人を、お目にかけましょう」
バラクはうなずいて、その天幕に向かって行った。部隊も、将を守るように囲みつつ警戒しながら従った。
「こちらです」
そう言ってヤエルは、自分の天幕の入口を開いた。血の臭いが乾いた風に乗って伝わってきた。薄暗くてよく見えなかったが、バラクは本能的に、これは近づいても安全だと察した。天幕に足を踏み入れると、目が慣れて、人が倒れているのがはっきりと分かった。白い布の上に赤い血が流れていて、どうやら死んでいるらしい。
「おおっ。これは……」
血の源にも布が掛けられていたが、その端から顔が覗いている。
「カナンの将軍シセラです」
ヤエルが誇らしげに告げた。
「いったい、どうやって……」
天幕の杭が、こめかみに刺し貫いていた。一撃で絶命したことだろう。ためらいもなく、力強い打ち込みによって、かの百戦錬磨の闘将がただの死体となって転がっていた。
「私が、打ち込んだのです」
ヤエルの右手に、木槌が握られていた。まだ若い女主人は、意志の強そうな眉と眼差しをはっきりと見せて、すべてに嘘偽りのないことを示した。
バラクは、デボラの言葉、いやイスラエルの神、主の言葉がすべて実現したことを、その目で見た。(おわり)