零れてくるその歌を
教会の創立記念の礼拝であった。太平洋戦争前からの歴史をもつ教会であるが、それは二つの小さな教会がひとつになったところからの物語である。ということは、その小さな教会(正確には伝道所)の歴史も背負っていることになる。それぞれの伝道所は、7年の時を経て、ひとつとなったという。
太平洋戦争が始まった年には、日本のプロテスタントキリスト教会は、一つにまとめられた。戦後、再び分かれることができたが、一つにまとめられていたときのあり方を引き継ぐ群もあった。そのことについては、いまここでとやかくコメントすることは控える。
ただ、いろいろなキリスト者が、それぞれの教会の歴史を刻んだ。実に教会は、組織ではなく、一人ひとりの信仰者のつながりであった。それは、一人の人間に手があり足があり、胃があり腸があり、筋肉があり骨があり、一つひとつの細胞があるように、つまりそのどれもが「私」という体の一部であるというように、教会はキリストの体の器官であるとすれば、一人ひとりが細胞であるようなものだ、と喩えてよい様子なのであった。
一つひとつの細胞は、その「私」の中枢神経とつながり、その指令によってはたらいている。キリスト者は、キリストの指令に基づいて生きている。説教者は、一人の羊飼いを戴いている、という言い方をした。「私について来なさい」というイエス・キリストの声を聞いて従う者たちなのだ、と断言した。
キリスト者は、この主イエス・キリストに「お目にかかった」者たちである。この私たちの礼拝が、いつまでも続くことを、黙示録は示している。144,000人の大群衆は、そのままの数字というよりも、完全なイスラエル、救われる人々のすべてを意味していると受け取ってよいだろうと思う。
2:私は、大水のとどろきのような、また激しい雷鳴のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者が奏でる竪琴の響きのようであった。
この雷鳴、あるいは竪琴の響きのような大いなる音は、「新しい歌」だった。
3:彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、誰も覚えることができなかった。
天上で、大合唱が行われている。説教者はここで、「天上の歌が、地上の礼拝に零れてくる」という言い方をした。私はそこで胸に光が灯るのを感じた。この言葉は、今日の礼拝のハイライトだ、と思った。すると、案の定、その後の礼拝説教の中で、この「天上から零れてくる歌」というフレーズが、要所要所で幾度も語られた。私の感じ方に、間違いはなかった。
説教者は、12章から14章までのつながりを意識していた。ここはひとつの舞台のように、しかも歌が響き続けるオペラのように、私たちに終末の出来事を見せてくれるというのだ。先に12章では竜が現われたが、竜は結局神の前に滅ぼされることになる。その竜が、現実世界にどのように現われるのか、それを問う場面があった。
そのとき、世の出来事について、竜あるいはサタンの故だ、とする味方も当然あるものと考えられたが、他方、見えない形で、いま自分さえもが、そのサタンに魅入られているかもしれない、という視点を、説教者は忘れなかった。やはりこれが必要なのだと私は強く思う。
そんなことを考えるのは不信仰だ、と声高に叫ぶ人もいる。キリストの救いを信じれば、サタンは自分に手を出せない、などと言うのだ。だが、公平に考えて、その信じ方は無謀で在り、最も危険であると私は思う。自分は電話の詐欺になど引っかからない、と豪語するタイプの人間が、詐欺師から見れば一番のカモである、という常識と、この見解は一致する。
この教会が駆け出しの頃、朱基徹(チュ・ギチョル)という朝鮮長老派教会の牧師がいた。韓国併合の後の神社参拝の強制に反対し、捕らえられて獄死した。こうした話は耳に聞く。だが、一人のキリスト者の姿を真正面から描き紹介することは、おおまかな指摘とは異なるリアリティをもつ。個を明らかにすることによって、全を伝えるのだ。イエス・キリストひとりを知ることによって、神と出会うのとパラレルであるかもしれない。
竜のはたらきは、朱基徹牧師を襲った。私たちの目には不幸なこととしてそれは映ったが、神は勝利を与えている、と信じるべきである。ただ、そのようにいまもなお、竜は攻撃を仕掛けてくる。黙示録でやがて滅びる竜は、いまの私たちの時代には、まだ生きて働いているのだ。過去の話として、こうした先人の逸話を他人事に聞くことはできない。もちろん、聖書に描かれている人物たちの有様も、いまの私たちにとってやはり直面していることだ、と理解すべきである。
礼拝から疲れ果てて帰ることがよいはずがない。そこで力を受けるのだ。歌うのだ。それは、天上から零れてくるあの歌を聴くことで、初めて歌える、新しい歌である。いまのままでよいわけがない。いつしか現状に慣れて、それを維持することが目標になる、そういう罠が、教会活動には常に伴っている。しかし、私たちは新しい歌を歌うのだ。
先の牧師は退任のときに、「前へ進め」と説教したという。励みになっただろう。私は、もっとイメージを膨らませる。私なら、「駆け抜けよ」と煽りたい。ゴールを目指して進む野ではない。ゴールの向こうまで駆け抜けていくようでありたい。一塁ベースを駆け抜ける打者のように、駆け抜けるようでありたい。
教会には、イエス・キリストが送り続けた勇者がたくさんいた。また、たくさんいる。竜の力は恐ろしい。だが、耳を澄ませば、静かなる細き声が、聞こえてくる。確かに天上では賛美の響きがあるのであり、これが天上から零れてくる。このことは、将来のいつか起こるという意味で書かれているのではない、というのが説教者の信仰である。
そこでいう「いま」というのは、この2024年の特定の日のことだけを言うのではない。
再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。(ヘブライ4:7)
この「今日」はいつでも私たちにとっての「今日」であり得るのだ。だから、神を見上げて、「いま」を喜び歌おう。「いま」天上からその歌声が、確かに零れているのだ。聞こうと思えば聞こえるその声は、信仰の耳で聞くのだろう。「地上から贖われた……者たち」だけが覚えて歌えるその新しい歌を、歌おうではないか。