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そんな者はいないはずなのに

イザヤ40:12-14 
 
反語という技法があります。そんなことをしていいのか、と問うような疑問文のことです。Yesの答えが通常できず、否定の答えしか許さないような疑問文であり、要するに否定のことが言いたいのであり、否定を相手に認めさせたいわけです。誰が主の霊を計り助言者として主に教えたのか。疑問文の形になっていますが、答えは決まっています。
 
そのような者は誰ひとりいない。イザヤは強烈な形でこれを置き、主に並ぶ者がありえないことを強調します。小気味よい味わいを感じさせるか、それともいやらしい印象を与えるか、それは受け取る側の態度に基づいて決まるのかもしれません。答える側の応じ方こそが、実は問われているという疑問文であったのです。
 
誰が主に公正の道を教え、知識を教え、英知の道を知らせたのか。それは私です、などと手を挙げるような愚か者の存在を想定などしていません。圧倒的な問いかけです。これがイザヤ書の空気を一気に換える40章に紛れているところに注目したいと思います。イスラエルは罰されました。捕囚され、主に背いたことの報いを受けました。
 
しかし、赦されたイスラエルの地を再興する道が拓かれたことを、イザヤは告げています。主の言葉は、人間の知恵を遙かに超えて、いま働くのだ。このような摂理になど、誰も思い及ぶはずがないではないか。こうやって、本日の聖書箇所に流れてきました。神の計画や神の業は、人の計りを超えています。え、そんなの当たり前ではないかって?
 
でも、それなら神とはこういうものだ、神は死んだのだ、そんなことを口にして、人間が神を道具にすら利用して自分の利益を求め、自分の欲望を満たそうとしているのはどういうことなのでしょう。神に祈って願いを叶えようとしたり、神のことをすべて知ったかのように聖書を自由に操り、自ら振舞ったりするのは、いったいどうしてなのでしょうか。

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