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十字架への道 (続) (ルカ23:1-25)

◆判決への過程

ローマ帝国の領地であったユダヤ地方には、傀儡政権としての王政があったものの、ユダヤ人の自治には制限があったといいます。福音書で問題となるのは、死刑執行の権限がなかった、という点です。さて、歴史上どうなのか、私にはよく分かりません。ルカ自身による脚色や、誤解も混じっているかもしれず、歴然と事の次第を記すことは、相応しくない、と理解しています。
 
ユダヤの法律、つまり「律法」においては、石打ちの刑が一般的だったようです。先週お伝えしたように、「殺してはならない」の陰には、ありえないほど多くの「殺せ」が潜んでいました。ただ、ユダヤの制度では「十字架刑」は、ありませんでした。
 
否、その「十字架」も間違いだ、と突く人たちがいます。棒なのだ、と言ったり、T形などいろいろなスタイルがあったと言ったりもします。そのどれであれ、イエスが磔刑に付されたということを、伝統的に「十字架刑」だと、ここでは言わせてください。
 
十字架刑は、ローマ帝国において、国家反逆などの重罪に対する処罰です。西アジア地域では古い歴史をもつようで、アッシリア帝国には確実にあったと言われています。実に残酷な極刑です。死に至るその過程については、すでにお話ししたこともありますので、いまは割愛します。残酷の度合いを考えるのも筋違いかもしれませんが、ある意味で最も残酷な刑だ、と言われることもあります。
 
後に四世紀初頭にローマ皇帝となったコンスタンチヌスがキリスト教に改宗した、といいますが、そのときに十字架の幻を見たことが、十字架というものがキリスト教の中核にくる契機となった、と考える人がいます。その後、ローマ帝国で十字架刑が廃止されたことで、いわば歴史的遺産になったために、教会のシンボルとなったのではないか、と推測する人もいます。
 
より古い時代には、キリスト教徒のシンボルは魚であったようです。仲間であることを、魚を暗号にすることにより確認していたそうです。それは、ギリシア語の魚という語「イクトゥス」の文字が、「イエス・キリスト・神の・子・救世主」の語の頭文字をつないだものであったからです。
 
福音書の中に、時折魚が登場するのは、後のこの理解を踏まえているのかもしれません。ただ、福音書には十字架が非常に強調されています。パウロの手紙でもそうです。十字架は、まだ教会のシンボルとはなっていませんでした。むしろ忌まわしい、主イエスを殺した死刑台でした。それなのに、福音書は十字架について繰り返し言及します。
 
今日は、まだその十字架そのものは登場しません。十字架刑が判決とて決定される、その過程を見守ります。前回の、ユダヤ人の間でのイエスの姿を描くに留まらず、ローマ帝国が絡んできます。死刑の決定権がローマにあったからといって、以下見ていくように、必ずしもローマの役人が勝手にそのように決めたとは言い難い情況がそこにあります。その辺りも確認しながら、しばらくは、臨場感を味わいながら、いくつかの場面を区切りながら見つめていくことにします。
 

◆ピラトの尋問

そこで、ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになった。(ルカ23:3)
 
ピラトというのは、ユダヤ地域に責任を負っていた、ローマ帝国の役人です。普通「総督」と訳されますが、その呼称に異議を唱える人もいます。いまここではどうでもいいことです。注目すべきは、ここでイエスが返事をしていることです。それは当たり前ではないか、と思われるかもしれません。実際、前回のユダヤ人の間での裁判では、イエスはかなり冗舌に、弁明していました。
 
しかし、この後、イエスは沈黙を守ります。十字架を背負い歩くときに、いくらか周囲の人に向けて預言をします。また、十字架に架けられてから、二言三言発します。でも、それだけです。ですから、裁判の席でのイエスの弁明ないし証言というのは、ここが最後なのです。
 
「それは、あなたが言っていることだ」、この言葉を胸に、経過を辿ることにします。
 
ピラトは、「祭司長たちと群衆に」対して述べました。もとよりイエスのことを、ユダヤ人たちが訴えるような扇動者や反抗者のようには見ていなかったのではないかと思われます。見た目にも、おそらく。それで、「この男には何の罪も見つからない」と説明しました。
 
「罪」とは、ピラトにとっては、ローマ法に反することだったことでしょう。客観的な犯罪であり、大きくは皇帝や帝国に対する反逆に関してであれば一大事でしょうが、盗みや殺人など、明らかな犯罪でなければ、「罪」とは考えなかったことでしょう。英語で言えば、crimeの問題だということです。
 
但し、田川健三はこの語を「罪」と訳すと混同するとして、「事由」と訳しています。その程度の問題を示すための言葉に過ぎない、と。これは理解のためにはまことに適切な指摘だと思います。
 
しかし、ユダヤ側から見れば、ローマ法的なcrimeではなく、宗教的に深刻なsinでした。動機のような心に関わる問題です。端的に言えば、神に対する罪です。不道徳なこと、心情的なことについても含み得る概念だったと考えられますから、イエスが神の子と詐称したなどという点が、この上なく赦しがたい重罪となるのです。
 
ただ、宗教的な悪だとローマ人に訴えても、無力なことは分かっていました。そこで、ローマの法に触れるような表現を使って、お偉方が訴えます。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と。
 
もちろんイエスが扇動するなどとは私たちは考えられないのですが、この訴えは実に奇妙なものだと思いませんか。民衆を扇動している――と言いますが、当の祭司長たちが群衆をここで扇動していること、その後も紛れもなく扇動していることを思うと、論外だという気がします。まことに、自分のしていることが分からない、というのはよくあることです。
 

◆ピラトの心理

ピラトは、必ずしもここに描かれたような弱気な統治者ではありません。歴史的に見たとき、かなり荒っぽいことをしていたらしいことが窺えます。同じルカ伝では、13章で、ピラトがガリラヤ人を殺したようなことを報告しています。仕事熱心の故であるかもしれませんが、最後はサマリア人を理不尽に殺し、ローマに戻されているといいます。冷酷な性格だ、という記録もありますから、ここに描かれた遠慮がちな人物としての描き方は、ローマ関係者に献辞を記したルカによる、さじ加減なのでしょうか。
 
ピラトは困惑しています。イエスに罪状を言い渡すことは、自分の目からすれば納得のいかないことだったのです。しかし、ユダヤの権力者たちが引っ込みません。
 
ところがどういう筋からかは分かりませんが、ピラトはイエスが「ガリラヤ」の出身であることを意識します。ガリラヤ人であるならば、エルサレムに赴任している自分が全責任を負う必要がないと考えます。ガリラヤはローマが直轄支配をしていなかったようです。支配していたのは、かつてのヘロデ大王の子のヘロデ・アンティパスでした。大王は、三人の息子にそれぞれ別々の区域の支配権を与えました。ガリラヤはアンティパスです。だから、ガリラヤ人の裁判権はヘロデ・アンティパスにある、という筋道を、ルカは立てたのでした。
 
けれども恐らく、逮捕されたエルサレムで裁判をして問題はなかったはずです。わざわざガリラヤのヘロデに引き渡すというこの展開は、福音書の中でもルカだけしか描いていません。何か意図があったのだろうとは思いますが、ここは謎解き教室ではありません。ルカは何故か、一旦ヘロデに裁判を委ねる過程をつくった、そのままに読み進んでいきます。ちょうどヘロデがエルサレムに滞在していたのは、ピラトにとり、好都合だったというだけです。
 
これ幸い、ヘロデに丸投げしよう。ユダヤの宗教のごたごたは自分には判断がつきかねるし、ヒステリックになった群衆に安易に同調しないほうがよい。厄介者を、ピラトは手放すことができると目論んだのです。
 
ピラトが見立てる限り、イエスは死罪には値しないように思えました。もし死罪に適さざる者を死刑にしてしまい、後で何か追及されたら、ピラトは地位を失いかねません。宗教を理由にして死刑にするのは、自分の身の上からしても危険だ、と考えたのではないでしょうか。
 
黙示録などによると、ローマ帝国は悪魔の権化のように描かれています。しかしローマ帝国は、支配地を闇雲に宗教的にも束縛しようとは、無闇にしませんでした。宗教政策は、比較的寛容だったはずです。そうでないと、あれだけの広大な帝国を、平穏に治めることはできないでしょう。宗教弾圧をすると、人々の抵抗に熱が入ります。それは、現在のパレスチナとイスラエルの姿を見ても分かるのではないでしょうか。その他、歴史的に、宗教が火種となって執拗な攻撃と争いを続けた例は、枚挙に暇がありません。
 
こうして、イエスは、エルサレムに偶々いたヘロデのもとに送られます。
 

◆ヘロデの尋問

8:イエスを見ると、彼は非常に喜んだ。というのは、イエスの噂を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
 
イエスの噂とは具体的に何であるのか、分かりません。人々を癒やしている。ユダヤ教の教師として教えをなし、人々に慕われている。そんな感じでしょうか。奇蹟をなすというその手を直に見たことがないために、興味津々というところだったのでしょうか。
 
このヘロデは、福音書によると、洗礼者ヨハネの首を刎ねた、あの王です。同じルカは、このヘロデについて、興味深い一節を挟んでいます。ルカ13章です。
 
31:ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
32:イエスは言われた。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。
 
このイエスの言葉をヘロデが聞き知っていたかどうかは分かりませんが、命を狙うほどですから、ヘロデ側からすれば、単にイエスに好奇心から近づくというようなわけではないようです。
 
もしこの辺りのドラマでも書くならば、このヘロデの心理を描くのが面白いところではないでしょうか。多分に、ピラトの心理も面白いものですが。――ということは、この裁判を通じて、それぞれの権力者たちの心理や思惑というものは、それぞれに際立っており、検討するに値するということになるでしょう。それが、今回この場面で、それぞれの人物に光を当てて聖書に向き合っている狙いでもあります。
 
しかしルカは、ヘロデが実際イエスに向かってどのような尋問をしたか、そこには一切関心を寄せません。いろいろ尋ねたそうですが、イエスは何も答えなかったというだけです。
 
このとき、「祭司長たちと律法学者たち」が立ち上がり、イエスを激しい口調で訴えます。これも内容についてルカは触れませんが、驚くことに、彼らはピラトのところからヘロデのところにも、ついてきていたのですね。執念なのか任務なのか知りませんが、なんとしてでもこの機会にイエスを葬りたい、という動向を強く感じます。
 
だとすれば、ヘロデもここで簡単に裁きを下してもよいのに、その結論はなしに、ピラトの許にイエスを送り返します。そればかりか、尋問するヘロデ自身が、兵士たちと一緒になってイエスを嘲り、侮辱した、などと書いてあります。ルカの脚色なのでしょうが、イエスはただ愚弄されただけで、またピラトのところに戻ってきました。この辺りの政治的システムについて私はよく分からないものの、ピラトの当てが外れたのは間違いありません。
 
12:この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
 
この記述を基に、「敵の敵は味方」などという言葉の証拠に使われることがあります。この訳だと、二人が親友のようになったかのようにも見えますが、多分に、二人ともイエスの敵となったのだ、という程度のことを伝えようとしたのではないでしょうか。それほどに、権力者というものは、イエスの側には来ない、というわけです。
 

◆ピラトと群衆

イエスは、再びピラトのところに戻ってきました。ピラトは、全責任が自分に被さってきたことで失望したかもしれません。「祭司長たちと議員たち」がまたピラトの前に集まります。ピラトはさらに「民衆」も集めています。そして、おまえたちがしきりにイエスを訴えているが、ローマ法に照らし合わせて、厳しい罰に処すような犯罪性は見られないのだ、と言います。
 
訴えは、イエスが「民衆を惑わしている」ということだが、そんなことで俺を煩わせるな、とでも言いたいかのようです。惑わされている民衆自身がそこにいたのですが、ピラトは、これをいったいどのように受け取っていたでしょうか。ソクラテスが青年たちを惑わしている、と訴えられても、それを裁いたのは青年たち自身ではなかっただろうと思います。しかしイエスについては、惑わされた民衆たち自身が、イエスに噛みついているのです。
 
実際、ヘロデがここにまた送り返したということは、ヘロデですら、イエスの中に厳しい犯罪を見出せなかったのではないか。ピラトはそう考えて、人々を宥めようとします。少なくとも「死刑」にするにはあまりに嫌疑が弱いというのです。ピラトの言っていることは、理に適っていると思います。
 
ローマの論理からすると、死刑は不合理です。だから、「懲らしめた上で釈放しよう」と提言します。以前、「鞭打ち刑」を示唆する訳の聖書がありましたが、必ずしも鞭まで持ち出す必要はなさそうです。「懲戒」という程度で理解してよいのではないかと思います。それほどに、ピラトはイエスに対して同情的な措置をとりますが、これは心情的なものではないと思われます。尤も、ルカはそう伝わるように、つまりある意味でローマに阿るように、描いているのかもしれませんが。
 
けれども、イエスを死刑に運んだのは、結局そこにいた「人々」でした。過越の祭において、恩赦制度があることをピラトは踏まえて、イエスを「釈放しよう」と言ったそうなのですが、群衆はこの恩赦をイエスに許さないどころか、別人に振り向けました。「その男は連れて行け。バラバを釈放しろ」という声が怒号に変わります。
 
「連れて行け」というのは、釈放しないで、刑場へ連れて行け、という意味なのでしょう。聖書によってはあったかと思いますが、「殺せ」と訳すと強すぎるかもしれませんし「除け」だと、日本語としてしっくり来ません。
 
ルカは、このバラバについては説明を加えています。「都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」のですから、凶悪犯のように聞こえますが、どういうことなのか、これだけでは分かりません。ローマ側からすれば、そうなのでしょう。でも、ローマに反抗するのは重罪で極刑をも免れません。そのタイプだとすると、ピラトとしてはそういう者を釈放してよいのでしょうか。恩赦だからよいのでしょうか。あるいはまた、ユダヤ側からすれば、一種の義賊であった可能性もあります。
 
懲らしめて釈放を提案したピラトの言葉は、ピラトのここでの一つめの言葉でした。しかし群衆は騒ぎ始めます。釈放するならバラバなのです。そこでピラトは二度目に呼びかけます。言葉をルカは記録していませんが、最初と同様のことだと推測されます。しかし、人々の感情はもう止まりません。「十字架につけろ、十字架につけろ」と、ローマの死刑でも最も残酷な重罪刑に決めろ、とピラトに迫ります。
 
このシュプレヒコールの場であっても、なおピラトは群衆を宥めようと努めます。健気なほどに、法の立場を貫こうとしています。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。だから、懲らしめたうえで、釈放することにしよう」と、同じ言葉で芸がないのですが、中核からブレない弁護となりました。しかし、ユダヤの群衆には、ローマ法の文化を理解する隙間はありません。「人々は、イエスを十字架につけるように大声で叫んでやまなかった」のでした。
 
ピラトが三度群衆に訴えているのは、ペトロが三度イエスを否むことと対照させられます。しかし三度目の正直とはなりませんでした。三度ということで、一定の営みの終了が表現されているのかもしれません。
 

◆ピラトの報い

ピラトは根負けします。イエスを十字架につけろ。群衆の矛先は、ピラトに向けられていることが分かったのです。「ついに、その声がまさった」というのは、ピラトの心が負けたということです。法的な秩序を貫こうとするピラトの意志が、シュプレヒコールに負けるのです。
 
ピラトは、十字架につける決定を下しました。騒擾を治めなければなりません。ユダヤの治安を乱したら、帝国から罰を受けるのは自分です。暴動を起こすわけにはゆきません。治安維持のために、ひとりの男に死んでもらうだけのことです。
 
ピラトは、ユダヤ人を殺すことそのものには、恐らく何の良心の呵責も懐かなかっただろうと思います。それでも、法というものを構える社会において、理由なく意義不要なままに、残酷な死刑に処すというのは、気分の好いものではありません。
 
決定したことの責任は、どこに行くのでしょうか。私は私自身だ、と捉えていますが、いまはそちらへ傾けて読むことは差し控えます。この場面に戻りましょう。さあ、この責任が向けられるべきなのは、プレッシャーをかけた群衆でしょうか。その群衆を唆した祭司長をはじめとした権力者たちでしょうか。それともやはり、ピラトなのでしょうか。ルカは、ローマ帝国側の人物に敬意を払うという形で、福音書や使徒言行録を記しています。だからピラトの責任をできるだけ軽くしようと努めてきました。しかし、使徒信条という教会の信仰告白の中で、ピラトの名はいつまでも教会の礼拝の中で唱え続けられることとなったのでした。ピラトの責任は外せません。
 
24:そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
25:つまり、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスを彼らの求めるままに十字架へと引き渡したのである。
 
バラバを釈放し、イエスをユダヤ人の思いのままにさせる。ピラトは、自分でもう関与して、事態を変えることには関心がなくなっていました。イエスを弁護しようとすることを諦め、自分の手から放り出すことになります。それがどういうことになるのか、分かっていました。
 
「イエスを彼らの求めるままに十字架へと引き渡した」という点については、田川健三が適切な説明を施しています。彼らの「意志」に引き渡した、という言葉遣いなのですが、この「意志」は現代人の思う「意志」とは異なります。「主張に応じて」と訳すべきだ、と言っています。私たちが読むと、彼らの好きにさせる、そんなふうに受け取りがちですが、そうではありません。ユダヤ人たちに調子を合わせたのです。田川健三は「迎合するために」の意味である、と説いていました。
 

◆あなたは何と言うか

さあ、こうして長い時間、いろいろな立場から、イエスの裁判を取り囲む人々を見てきました。彼らに付き添いながら、裁判を見届けてきました。ここで、この場面でイエスが発した唯一の言葉に戻ることにしましょう。最初のところです。
 
3:そこで、ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになった。
 
なんといっても気になるのが、「それは、あなたが言っていることだ」と端的に発された言葉です。これは元々マルコが記している言葉であり、マタイもルカも引き継いで記録しています。少し変形してはいますが、ヨハネもこの点に触れています。つまり、イエスの言葉としては、福音書記者のすべてが、漏らさずこの言葉を書き留めて遺しているのです。
 
「あなた」とは、いまイエスが向き合っているピラトのことです。国語のテストならばそれで十分です。「あなたが、私イエスをユダヤ人の王だと言っている」という意味にほかなりません。けれども、これはいったいどういう意味なのでしょうか。「あなたが言っているその通りだ」と答えたことになるのでしょうか。
 
それとも、「おまえたちがそのように言いふらしているのだ」と言っているのでしょうか。後者だとすると、「そのために私がいまこうして逮捕されているのだ」とつながる流れさえできます。先週の最高法院でも、イエスがこのようなことを返答していたことをご記憶の方もいるでしょう。そのときにもこのように二つの受け止め方ができることをお伝えしていました。
 
さらにこれが、マルコの場合、マタイの場合と、微妙な空気を醸し出すために、ルカだとどうか、というふうに詮索しようとすればすることもできるらしいのです。でも今日は、ルカの世界を私たちは歩んでいます。
 
もし、「あなたがそう言って私を陥れている」方向に進むならば、この「あなた」には、祭司長たちも当てはめられる可能性が出てきます。群衆かもしれません。あるいはヘロデだって含まれるかもしれません。
 
来週、受難を覚える週、つまり「受難週」として聖書を共に読みます。そのときには、このイエスの十字架の上の姿を描かなければなりません。そのイエスから今日零れてきた言葉は、「それはあなたが言っている」の一言だけでした。私たちは今日、この言葉をイエスから与えられた言葉として受け止めたいと思います。
 
でも、どう受け止めるとよいのでしょう。先ほど私たちは、二つのかなり方向の異なる意味を感じました。そのどちらがよいのか、という問題は、聖書解釈の点からも多々議論のあるところです。私たちが、学問的にそれを解決しようとするのは、適切ではありません。
 
そこでふと思い出したのが、同じようなイエスの言葉を受けた、別の人がいたことです。ルカ9章で、イエスはペトロに似たような場面を与えています。
 
18:イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19:弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます。」
20:イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神のメシアです。」
 
「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われて、ペトロは「メシア」と言いました。が、「メシア」とはヘブライ語であり、ユダヤの人々が待望していた救い主のことです。ギリシア語で記した福音書では、「キリスト」と書かれています。従来「キリスト」と訳していた箇所です。ヘブライ思想の立場で見ているから「メシア」に戻すべきだ、として訳すのが、近年の日本聖書協会の考えです。
 
ペトロは、「キリスト」だとイエスのことを言ったのです。そしてこれは、私たちキリスト者の、すべての信仰告白そのものです。「あなたは」はピラトでもユダヤの権力者でも群衆でもいいし、このようにペトロでもいいのだと思います。そうであれば、私も当然その問いを向けられている一人です。私も、そしてあなたも。
 
肉体も傷つき、誹謗中傷に傷つき、人に棄てられたこのイエスを、「あなたは」つまり、まさにお聴きの「あなた」、そして私の立場からすれば「私」、それが、改めて問われています。あなたにとり、このイエスはキリストなのか。あなたにとり、イエスは救い主なのか。イエスと出会った者は改めて、「キリストです」と答えるのです。答え続けるのです。

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