私は主、あなたの神 (出エジプト20:2-3, 申命記5:6-7)【十戒①】
◆前置き
2:「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3:あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
出エジプト記20章に登場する「十戒」は、まずこの第一戒から始まります。前回は、十戒全体について聞き取ってきました。今回からは、その一つひとつに留まりながら、神の掟を受け止めていこうと考えています。
今日は、第一戒から聴くひとときを以て、神を礼拝することにしましょう。前回お話ししたように、この十戒は、この出エジプト記に加えて、申命記にも登場します。時に、それらを比較して、違いを感じる機会ももとうと思います。ただ、今回この最初の掟には、違いはありません。さしあたり出エジプト記という呼び方で引用することにします。
メッセージについて、お開きする聖書箇所は、多くの場合、旧約聖書からひとつと、新約聖書からひとつの箇所を私は指定しています。しかし、この十戒のシリーズにおいては、そうではないあり方で聖書を用います。出エジプト記20章と、申命記5章からだけ、聖書箇所として示すことにするのです。
けれども、当然他の聖書箇所も参照します。メッセージの中では、他の箇所も自由に引用します。さらに、前回触れたように、この十戒の言葉を、主イエスの出来事に重ねて聴いていきたいと願っていることも、改めてお知らせしておきます。いえ、さらに言えば、「十戒の言葉を、イエスの口から聴く」ものでありたい、と願っています。イエスの口から、この十戒を聴くという姿勢を、忘れないでいようと思うのです。
そのとき、新約聖書をも取り上げることになります。時には、この十戒の箇所よりも長い引用をするかもしれません。けれども、予め新約聖書を開く、ということは致しません。聖書箇所として、その新約聖書を指定することなく、メッセージの中で、触れていくことを致します。
どうぞ共に、いつも新約聖書を意識しながら、十戒を受け止めるこの試みに、加わって戴けませんでしょうか。
◆神
2:「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3:あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
先に触れたように、申命記も変わりません。これらの書を比較する意義はさしあたりありません。そして、ここに示されている内容については、キリスト教徒にとってはあたりまえ過ぎることである、と言ってよいかと思います。キリスト教を批判するような人々にとっても、それは一神教だから、のような言い方をするならば、要するにこの掟をある意味で認めていることになります。自身信じているわけではないけれども、聖書の神は、そういう神なのだ、ということを了解している、という意味です。
一神教。ユダヤ教やイスラム教と共に、この言葉が重くのしかかります。いえ、キリスト教が三位一体であるから一神教ではない、などという細かな議論をここでしようとしているのではありません。「一神教は戦争をすぐにやる」というような批判を受けることがありますが、そういう政治的な内容で、いま踏み込もうとしているのでもありません。ただ、日本古来の宗教観に合うものではないために、一神教は、この国ではどこか冷たい印象を与えるのかもしれません。
かと思えば、キリスト教の歴史が育まれた文化環境においては、神はひとりに決まっている、ということを常識にしている国や民族がいることも確かです。多神教側も一神教側も、それぞれに、一神教について一定のイメージをもっているというのも確かでしょう。
ここで日本語の問題に関わりますが、「カミ」という言葉に、何らかの問題が含まれていることに少しだけ思いを寄せてみます。古代語ですから、もちろん諸説あるようです。「カミ」の意味はこれだ、と断定は差し控えます。ただ、八百万といった形で日本で昔から捉えられていた「カミ」というものがあったのは確かなことです。それはもちろん、聖書の神とは異なります。
日本に聖書が入ってきたとき、それをどう訳すか、困ったようです。キリシタン時代は「でうす」のように、ラテン語読みをそのまま使っていたといいます。「神」を用いるのには、ずいぶんためらったらしいのです。それは、日本の「カミ」と明らかに大幅に違うからでしょう。「天帝」も候補であったと聞いています。中国の影響です。
別の機会に触れましたが、「礼拝」は仏教の「らいはい」から、「回心」も仏教の「えしん」から借用し、恰もキリスト教専用の語のように、奪ってしまった観があります。「神」も、聖書のような神を表すのが当然であるかのように振舞うのは、なんだか厚かましいような気もします。
◆神はほかにいる
もうそこはお許しを願うしかありません。神道などのいう「カミ」の語を勝手に使って申し訳ありませんが、慣用とでもいいますか、訳出されているように聖書でも神という呼び方で呼ばせて戴きます。
キリスト教、あるいはユダヤ教としたほうがよいのかもしれませんが、こちらの立場から、お話を続けます。この神はひとりである。唯一であり、他に神々がいて、それらと並立しているのではない。それが聖書の主張です。
そうなると、よく「三位一体」というのは訳が分からない、という質問が来ます。もちろんこの語そのものが聖書に書かれているわけではありません。神学用語です。これも、多神教の分野で同じような用語があるらしいのですが、オリジナルであれどうであれ、さしあたり定着したものとして、「三位一体」と呼ばせて戴きます。「さんみいったい」という不思議な読み方をします。唇を閉じる発音が「m」であるため、「sani」と書きながらも「sammi」と自然に唇が動いたのではないでしょうか。
その「三位一体」とは、父・子・聖霊という三つの形(位格)をとりながら、神はひとりである、という教義を意味します。いやいや、それは三人の神ということにほかならず、すでに多神教でしょう、というふうに言われることがあるわけです。
どうして三つで一人なのか。これは実に神秘的なことだ、と説明を拒む人もいます。なんとか説明を施そうとすることもあります。なにせ神は無限であり、人間の認識で捉えられてしまうものではありませんから、人間に理解できない何があっても不思議ではないのですが、それもまたちょろっと説明して、分かったような気になることはやめましょう。
3:あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
第一戒が強く迫るのは、特にここのところのような気がします。とりあえず主という名をもつ神がある、ということを前提として、ほかに神というものが合ってはならない、というのです。
クリスチャンになったら、仏像に手を合わせることは、たぶんしないのです。神社で柏手を打つようなことも、たぶんしないのです。このことは、聖書の神を信じたら、さしあたり誰でも分かることとされています。別の神を拝んだり、その神に祈ったりすることは、しなくなります。教会で信仰の話を聞いたら、そして信じたら、そういうことはしないのです。
よし、だからこの戒めについては、自分は及第点だ――クリスチャンは、まずここで、自分を安心させます。けれども、そこが、悪魔のつけこむところなのです。
私たちは、別の神を拝んでいるかもしれないからです。自分では意識しなくとも、他の神を信じているかも知れないのです。
◆腹を神とすること
フィリピの信徒への手紙というものがあります。パウロが書いたという点については、基本的に信頼されています。その内容を辿ることはいま控えますが、それほど長くありませんので、それってどんなだったか、とお思いの方は、今日早速お読みになるとよいかと思います。慰められる言葉、勇気を与えられる言葉に、きっと出会うことでしょう。
フィリピ書3章の一部を、お読みします。
18:何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
19:彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
20:しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
ここも良い箇所ですね。教会の墓石に、「私たちの国籍は天にあります」と彫られているところを。時々見かけます。
死後の慰めとして、当時迫害に遭っていた人々への応援にもなっていたかと思われます。イエスはしきりに「神の国」と言いました。それに比べると、パウロは数えるほどしか「神の国」という言葉を用いていません。しかし、使うことはありました。「国籍」という言い回しは、やはりこの「神の国」というものを意識していたのではないかと推測します。
しかしそれは、「キリストの十字架の敵」を前提として言われた言葉でした。キリスト者の信仰は、世の人々から見れば、けしからんものかもしれません。しかし逆に、どうかすると、キリスト者は、信じていない人を、「ノンクリスチャン」と呼ぶことがあります。特にこれを「ノンクリ」などと言い始めると、どうにもどこか見下しているような態度を感じてしまうのは、私の考えのほうが不純だからでしょうか。でも、冷静に見れば、多分にキリスト者が信じていることのほうが、奇妙だと思うのです。
その前提でなお、パウロは、絶望しかけた信徒をも励まします。キリストを信じない人々は、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません」と語り、キリストの弟子たちはそうではないのだ、と言うのです。
ここに「腹を神と」する、という表現があります。「腹」とは、恐らく自分の心を意味するものと理解されます。このことは、非常に大きな問題、深い問題である、と私は見ています。
◆自分を神とすること
「分裂やつまずきを引き起こす者たち」が「キリストに仕えないで自分の腹に仕えている」と言っていることが分かります。「こういう人々」とは、どういう人々のことなのでしょうか。気づかれたと思いますが、これは「ノンクリスチャン」ではないはずです。そもそもキリストを信じていると言わない人々が、「分裂やつまずきを引き起こす」とは思えません。「キリストに仕えないで」とは、見かけ上、キリストに仕えている、あるいはそう自称しているからこそ、言及していることを意味していると解されます。
だとすれば、いま教会にいる私たち、「信仰している」と自ら口にする私たちこそ、この警告の当事者である、ということになります。心して受け取るべきだと思うのです。
「自分の腹に仕える」というのは、どういう意味に受け止めればよいでしょうか。まず、「自分の思いを優先する」と理解することができるでしょう。神と富とに兼ね仕えることはできない、とイエスは言いましたが、金や財産に限らず、クリスチャンは確かに惑います。自分のしたいことと、イエスの声とがかち合うときに、どちらを選ぶべきか、と迷うのです。「信じているならイエスだろう」と外部からは思われるかもしれませんが、なかなかそれは難しい問題です。
自分の目に、どうしてもそれが善いことだと見えるとき、むしろそれに従うのは、神の意志に従うことだと言えます。神は直接私に対して、ああしろこうしろと声をかけてくるわけではないので、「神のみこころ」を求めて祈り、また人間の知恵を動員して、それが善いことである、と判断するわけです。しかし、たとえば政治家にもクリスチャンが多くいますが、互いに意見が異なるということはざらにあります。どちらも神のみこころを求めていながらも、政策が異なり、何をすればよいのか、考え方が異なるわけです。仕方がありません。
それが個人の心の中ででも起こります。自分が善かれと思うことも、聖書の中のある言葉が、なにか引っかかる。かといって聖書の通りにすることができない場合もあるし、聖書の別の面に従うならば、自分の考えも善いことだ、としか思えないのです。どちらを選択するか、自分の中でぶつかり合います。
他にも、神の言葉は二千年前の文化においては確かにそう言うだろうけれど、現代はまた時代が違うのだから、一概に聖書の言葉そのものが最善であるということにはならないのではないか、という理解も起こり得ます。聖書の教えが抽象的であればなおさら、実践するのは困難を伴うものなのです。
しかし、「自分の腹に仕える」というのは、その程度のことではない、と私は感じます。この言葉は、「神に仕える」と比較対照されるべき表現をとっています。「神に仕える」であれば、神を第一として、神を主人とする、という意味が標準です。すると、「自分の腹に仕える」ということは、自分の考え、引いては自分を第一とすることであり、自分を主人とする、という意味になるでしょう。結局、「自分を神とする」という事態が根っこにあることになります。先ほど、そもそも神を信じていない人々について、「腹を神と」しているのだ、と言ったのが、このことに外なりません。
◆ファリサイ派
しかし、「腹を神と」しているのは、本当に、キリスト教の信者ではない人々のことを指すと言ってよいのでしょうか。パウロは、ローマ書16章で、このようなことを言っていました。
17:きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
18:こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。
「こういう人々」というのは、教会を乱したり、人を信仰から逸らすようなことをやる人々のことを指しています。そういう輩を警戒し、それから遠ざかれ、と注意した直後が、この「こういう人々」です。そのような者は、キリストに仕えているのではなく、「自分の腹」に仕えているのだ、というのです。
それは、純朴な信徒を傷つけ、嘘を言って信仰から外れていくように仕向ける、とんでもない輩だ、とパウロは非難しています。
お分かりでしょう。「こういう人々」は、教会の中にいる者を明らかに指しています。傍から見て、キリストに仕えているように見える人々のことをいっているのです。そもそも神を信じてもいない教会の外の人々であったら、「私たちの主であるキリストに仕えないで」というような、回りくどい言い方で修飾しないはずです。キリストに仕えているように見える者が、実はそうではなくて、「自分の腹に仕えている」という言葉の運びがここにあるに違いありません。
それは、本人が、「自分の腹」に仕えてやろう、などと企んでやっているのでしょうか。私は恐らく、そうではない、と考えます。自分では神に仕えているつもりでいながら、その実いつの間にか、神に従うという名目が、自分にすり替わり、自分に従うこと、その自分を神とすることへと転じてしまうのだと思うのです。実に隠された仕方で、知らず識らずそうなってしまう怖さがあります。本当です。
イエスは、そういう敵と闘っていました。そういう敵を攻撃したことで、命を狙われたのでした。
マタイ伝16章では、イエスが「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に十分注意しなさい」(6)と弟子たちに言います。パンを増やす奇蹟をそこで思い起こさせ、「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」(11)とイエスが言い終えたとき、弟子たちは気づきます。「その時、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」(12)のでした。
ここには「ファリサイ派とサドカイ派の人々」と挙げられていますが、ほかに「律法学者」と称されるグループもあります。定義はいろいろできるでしょうし、それらの指す意味内容は異なるのですが、ここでは区別しないで扱います。そして、いまはその代表として「ファリサイ派」という呼び名を用いることにします。
そのファリサイ派などの「教え」とはどういうものなのでしょうか。
イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家にも災いあれ。あなたがたは、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分ではその重荷に指一本も触れようとしない。(ルカ11:46)
自分では愛ある協力をすることなく、ただ相手にだけ圧迫をかけるのです。これはパワハラの支配構造にも似ています。教師がいつしか教室の王様になり、生徒を支配しようとするのと同じです。しかも、それを教師は自分の仕事とし、立派に仕事をしているのだ、と錯覚します。なおこれは、私がそういう立場であるからこそ、つくづく感じることです。世間一般の教職の方を悪く言っているつもりではありません。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。(ヨハネ16:2)
何か、思い当たることがある人、いらっしゃいませんか。
◆神の義
イエスの福音は、このように支配しようとする力に対して、神の自由が与えられるのだ、という方向を指し示します。それは、律法に反抗したり、律法をただ破ったりすることで達成されるものではありません。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:20)
ファリサイ派の人々がイエスの目にどんなふうに映っていたか、ということについて、もう一押ししておきます。マタイによる福音書の23章からです。
2:「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。
4:彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。
教会が、そしてクリスチャンが、世に伝えようとしている福音が、このようになっていないか、絶えず振り返らなければなりません。いえ、私は思います。これは私のことだ、と。ここをお読みするのが、いつも辛いのです。これは私自身の姿を描いている、という切迫した思いに襲われるからです。
それでも、私は絶望しません。律法を尊重するべきことは確かです。しかし、いまさら律法に従うために労苦する、ということをイエスが言い始めたら、福音でも何でもありません。律法を守れない人間、律法で罪ありとされた人間を、その罪を背負うイエスの故に、すべての罪が赦されて救われる、としたのがイエスであったはずです。
「あなたがたの義」と呼ばれるような正義など、私たちの内にはありません。しかし、私たちは確かに、「律法学者やファリサイ派の人々の義」に優る義を、知っているのです。――「神の義」です。イエスが愛を以て、私たちの罪を赦したという「神の義」です。神がしてくださった、人間の知恵と業とからでは永遠に出てこない出来事がもたらした「神の義」です。
十戒が、「私は主、あなたの神」として現れた神により与えられた律法であるとするなら、その同じ神が、その律法を守ったこととする救いの業をもたらしてくださいました。神自身が、人の想像を絶した痛みを以て、それを成し遂げました。罪は放置できません。処分しなくてはなりません。だから、イエス・キリストがその十字架で罪を背負い、私たちの罪が私たちに覆いかぶさらないようにしてくださったのです。キリスト者とは、そういう救いを信じる者です。十字架のイエス・キリストを見上げるとき、そこから声を聞く機会が与えられている者たちです。「私は主、あなたの神」なのだ、と。